2014年7月10日
人間と自然-5-2 荻野彰久・荻野鐵人
過去の過失は懺悔(ざんげ)によって消えるものではない。自分は確かに令子からそれを聞かされた。忘れもしない。令子が来たのは十月十七日の神嘗祭(かんなめさい)の日であった。
「ね、きいて下さる?」
祝客たちの引き取ったあと、令子は床のなかでいった。
「早く寝ようよ」彼女の寝巻姿を抱きながら彼がいうと、
「いいえ、その前にこれだけはどうしても一寸約束して頂きたいの」
令子は坐って、寝巻の乱れを直しながらいう。
「もう解った々々、ぼくは酔っ払っちゃった。早く寝ようよ」というと、
「いや!」と令子は振り払って、「ちゃんと話がつくまではいやなのよ!」と令子は劇(はげ)しくいう。
彼は目蓋の重い顔で床の上に寝転んだまま首を傾げ、坐っている令子の顔を見上げていた。
「それじゃ、これだけ伺わせて――ネ」令子は急に調子を落して媚(こ)びるようにいう。
「何だ、早くいってごらん。じり々々するじゃないか」
「あなた、わたしをお好き? それともお嫌い?」と令子は少女のママゴトのように云う。
「何いっているのだ、好きも嫌いもない。二人はきょう式を挙げたじゃないか」彼は笑った。
「いや、式を挙げたからはっきりさせておきたいのよ。一生は永いでしょう」
彼には見当がつかないので彼は口を結んでいた。すると令子は彼の手を自分の両手の中へ挟み、
「わたしはあなたが好きなのよ。世界の誰よりも……」令子はうっとりした目で彼の顔をじっと見詰めながら云う。
「でもあなたはわたしをそんなに愛しているのかどうか伺(うかが)っておきたかったのよ」
ニヤリニヤリ彼が黙っていると、
「じゃいいわ、男の口からそんなこと、おっしゃりたくなければいいわ」
「でも、わたしを心から信じているかどうか、じゃ、それだけ伺わせて、ネエ!」
「君は理屈っぽいな、いつから君はそんなに理屈っぽくなったのだ。数学科なんか出るとそんなものかね」彼は横坐りになった令子の白い足をいじりながらいった。
「で、いったいどうなのよ。わたしをほんとに愛して下さるわね?」
「うん」
「信じて下さるわね?」
「うん」
彼は眠りに陥り夢うつつにいった。
「じゃ、申し上げるけどね」と令子はようやく床のなかへもぐり込みながら、甘えるようにいう。
その日の疲れも手伝って彼は本当に眠くなってきていた。軽く応(う)けてはいたが、同情のない男のように思われるのも厭(いや)であった。何かいうのだが、それが言葉にならず舌の先で溶解されてしまうのだった。
「わたしねー」と令子はいって、
「ま、止そうかな」と首を縮め極り悪そうにいう。
「うん、それがいい」と彼は生(なま)欠伸(あくび)まじりにいった。
「わたしね、ほんとはあなたにどうしてもアヤマらなくてはならないことがありますの――」
令子は急に又沈んだ調子になるという。
「いいよ、いってごらん。話せばラクになる」彼はそういって揶揄(やゆ)った。
「――わたし、ほんとは処女じゃないのよ。これだけはあなたにどうしても打ち明けたくて……」
ハッと彼は緊張した。彼はとび起きた。彼は電燈を点けた。
「君も起きよ!」
彼は令子を凝視した。令子は一瞬表情が変った。令子はうつむく。
「それは誰だ!」
「――」
「黙っていては解らん!」
「――」
「恋人がありながら、何をしに僕のところに来たのだ!」
「違うわ、違うわ、それはずっと昔のことなのよ」
「昔!?」
「そうよ、女学校一年生の時だわ」
彼は昂奮(こうふん)から言葉が詰まった。
「だって、わたしは何も……ボートに乗ろうと誘ったから乗って沖へ出たら……」声を出して令子は泣き出す。
「淫売!!!」
彼は令子を蹴った。
「命の限り、令子に用はない」と彼は部屋から飛び出してしまった。