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2014年7月11日

人間と自然-6 荻野彰久・荻野鐵人

「令子はわたしが、よく言い聞かせて、一時里へでも行っていてもらいますから、その間にお前は、ドイツへでも英国へでも行って来て下さい。ね、解って呉れるわね」
母は彼の胸にぶらさがりながらいった。
父の気持は彼にも解らぬでもなかった。
「――それに伝統というものがある。僕は血統だけは穢(けが)したくはないのだ。お前は三代続いてひとり子の大事な躰だ。よいか血統だけは!」父はいうのだった。
「それでも可愛想だ」と人情話などを持ち出しては、令子を返そうとはしない父であった。
そういう父は彼の理解の外側に立っていた。
狭心症で母が突然死ぬと、彼はドイツへ旅立ってしまった……。で、ベルリンからもロンドンからも父への手紙で自分の決意を明らかにしたのだったが、いまになっても、父は令子を傍においていたとは――。
ロンドンの妻の実家にもすでにひとりの子供健一をおいてあり、いま腹のなかにまた子供が入っているというのに、いまさら異国の妻だの血統だのという父を何故か心から怨(うら)むのであった。
彼は唇を噛み、Carolの手をとって、とっととそのまま上って昔の自分の部屋へ這入ってしまつた。
翌日、Carolとふたり母の墓参りから帰ってみると、
「泣いて里へ還(かえ)ったよ」と祖母までが令子の味方になって恨みごとを云っていた……。
日本の言葉を識らない妻は、父や祖母、そして使用人までも、新しい外国製の人形でも見るような態度で、緑の眼だの、とがった鼻だのと、じろりじろり見るなど、自分に向けられた嘲笑(ちょうしょう)だとは勿論(もちろん)気づかぬらしかったが、家族が揃(そろ)っても、ものも言わぬ冷たい仕打ちにはさすがCarolも夜など頭を振り振り Why? Why? を連発しBedを叩きながら泣き叫ぶのであった……。

そうした或る夜、何の前触れもなく、
「Carolさん居ますか?」と玄関に一人のやせぎすの少年が這入って来て云う。一月の寒い夜で、九時を少し過ぎていた。
二階から降りて来た彼は、相手が誰であるか識ってはいたけれど、そしてそれは未だそんな年頃の少年だとは思ってはいたけれど、あまりの礼儀知らずの態度に変に腹が立ち、故意に黙っていた。
「居ませんか?」
少年はまたこんなにいう。
「で、何だ!」と彼はムッとして訊ねると、少年はあらためて自分からKだと名乗り、Carolさんに逢いたいのだという。
Kは彼の知人の一人息子であった。将来医科志望なのだが浪人をしているという話はKの父親から相談のかたちで聞いて知っていた。で、今夜の少年の来意は、妻に英語をみてもらいたいと云うのであった。
五、六年外国に居たからとて、日本人の彼が日本語をすっかり忘れてしまったのだろうとでも思ったのか、玄関に這入って来たときから少年はポケットから取り出した紙片を玄関の光にすかして何度も見てすべて英語で話す。彼がわざと日本語で答えても少年はどこまでも英語でくる。それが彼には不快きわまりないものに感じられてならなかった。
「そうですか、ま、妻にも訊いて見ないと」、
「Oh!Thank you, thank you」と来た。
日本はいつから日本人同志ものをいうのに英語で話すようになったのか、淋しいやら、腹が立つやらで、階段を一つ飛びに昇ってストーブの前の妻に話すと、しばらくは考え込んでいる風であったが、別にこれといった仕事もないし話し相手もない。それに淋しいから“Nearly good” だといった。



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