2014年7月14日
人間と自然-7-1 荻野彰久・荻野鐵人
月毎に膨(ふく)らんでいく妻の腹を見るにつけ、家のなかで見る小波は彼の心にも時々皺(しわ)を寄せるのだった。
「君、どこか適当な家はないかね。お父さんに一度訊(たず)ねてみてくれないか」或るときKに頼んでみた。
二、三日するとK君の父から毛筆で丁寧(ていねい)に書いた返事が届いた。自分の家の離れはどうかというのである。そうすれば伜(せがれ)も浅草から本郷まで毎日通わなくてもすみ、反って好都合だというのであった。
浅草のKのうちの離れに越すと1週間ばかり妻は気管支がわるくて床に着いていたが、それが直ると、みるみる元気をとり戻しはじめ、異邦人のようなよそよそしさも忘れているようであった。それにK君の姉妹もときどき遊びにきてくれて、三人は笑ってばかりいるほどであった。
そうした或る日の午後、まだ日本の学校事情をよく知らぬ彼ではあったが、Kを自分の部屋に呼んで、外国なみのことを云って勧めるのであった。
「――文科や法科ならいざしらず、医科のような自然科学の分野ならば難しい一流校に入ろうとして何年も浪人しなくても、たいがいのところなら一年でも早く入ってのんびりした方がよくはないか。……何ならぼくの関係している学校でもよいのではないか――」
他人の未来を彼がこんなにいうのには理由があった――試験期が近づいてくるとほとんど毎晩のようにKの母親がやってきていうのであった。
「しょんぼりと一日中部屋に閉じこもってばかりいて、親としてどうしてやりようもございません……手は細り、頬はこけ、まるで囚人のようで………」母親は涙ぐむのであった――
そんなことをいってすすめると最初は考えてみますといって帰るのであったが、四、五日しての夜、別人のような明るい表情でK君はやってきて、
「受けてみます!」また例の英語でいって彼を苦笑させるのであった。
彼の妻もそれを聞いて喜んだのは勿論である。が、その「私立」医大の試験が済み、ようやく張り出された発表を見にK君の両親や姉妹に伴われて来た妻は、ハンカチで顔を押えたままドアを叩くのであった。
Kは落第していたのである。
彼は白衣のままドアを押して出た。階段を降りて事務室へ行った。K君の得点を調べさせた。が、K君は、八割近くの総点数をとっていながら、落ちているのである。
愕いて事務の者に訊ねた。
「一体君、この学校は、何割とれば入れるのだ!」
「はい、それが、あの、その――」と事務の男は、頭をかいては背後の事務局長の顔を顧みて、卑屈そうに、腰をまげる。
「馬鹿な!」と怒って引き揚げてしまった。が、部屋ではCarolが手をもみ合わせながら歩き廻っている。
妻の肩を押えて椅子にかけさせ、妻に言って聞かせた。「日本の学生は皆出来るのだよ」
「あら! Kさんは日本人じゃないのですの?」
「あ……でもK君の得点では入れなかったのだよ」
「80%もとっていてもですか?」
「仕方がないさ、入学試験だもの!それにうちの学校はいいので秀才が集まるのだよ」
その時、ドアにノックが聞こえて、事務の者が入って来た。
「補欠には入っていると思いますから、どうかそれまで一つ、へえ」と手を組み合わせ頭を下げて出ていった。事務の男の現実処理に感心しながら、
「まア、いいさ、補欠であろうが、何であろうが、不正でさえなければね。入るが勝ちだよ」と妻にいって聞かせて帰へした。