2014年7月18日
akira's view 入山映ブログ 天災の報道
四川省(と北京)を襲った地震は大変な被害を及ぼした模様だ。その有様はほとんどリアルタイムで世界中のメディアに報道された。国内のテレビ局(電視台)に放映されたのはもちろんのことである。櫻井よしこさんにいわせると、(ほとんど十億人の詐欺や泥棒を相手にしているようなもので)全く信じてはいけない隣人のようではあるが、少なくとも災害の報道に関していえば、お隣のミャンマーとは好対照を示した。
あの愚かな将軍たちは、サイクロン被害に際して、報道の公開どころか、援助物資の受領・配布についても信じ難いほど愚かな判断を示した。軍人の単細胞の頭脳では、間近に迫っていた憲法国民投票を(いかなる理由かはともあれ)外国人の目に触れさせたくない、という一念に凝り固まっていた、という解釈も可能だろうし、そもそもいらざる挑発的言辞を弄したフランス大統領にも一端の責任なしとしない。しかし愚行は愚行であり、むしろ同じ中央集権国家同士でありながら、なにがこれほどの対応の差を招来させたのか、という方に興味がある。
経済の成長は経済の開放を前提とし、経済の開放は情報の解放(中国に報道の自由がある、などというつもりはない。おそらく世界最強の官製IT監視システムを持っているのは誰しも知るところだ。)を余儀なくさせる、というのが一番素直な解釈ではないか。渋々であれ、そうせざるを得ない(ちなみにこの頃、これをセザル・オエナイと発音する人が増えている。テレビのアナにも結構いるのですよ。)というのがグローバリゼーションの凄いところだ。
朝鮮語は全く解らないから意味不明だが、時に字幕付きで見る北朝鮮のテレビ放送は、第二次大戦中の日本のメディアを彷彿とさせるものがあるし、ミャンマーの御用新聞やテレビ番組を見たことのある人ならば、世界に向かって開かれているとはどういうことかを実感せざるを得ないだろう。とはいいながら、あの騒がしいだけのバラエティ番組や、この頃はNHKまだが汚染されつつあるやたら「おちゃらけた」用語・番組構成を見ていると、これが進歩かどうか、疑わしくなることもあるのだが。(1.03「騒音禍」(2)参照。)
2008年 05月 13日