2014年7月18日
人間と自然-9-1 荻野彰久・荻野鐵人
〈研究生たちのあとの始末をどうする?〉大学の正門を出ながら考えた。〈僕が自分の弟子たちのことを思って心配するのも、これもよく思われようとする僕の人間としてのエゴかもしれぬ、いや人間はみなエゴイズムで固まっている。いや世界はそう創られているのだ。自然はそれぞれその種族を絶やしてもらいたくなかったのだ。ライオンはライオンの種族を、ミミズはミミズの種族を!〉彼は三毛ネコのオスメスが軒下を走っていく姿を眺めながら考えた。〈自然から見てソレゾレの種族を絶やさないようにするには、その種族を構成している個々の躰を「生かさねば」ならなかったのだ。そこに自己(エゴ)保存(イズム)本能の下水が音を立てて流れているのだ〉
カバンを小脇に、狂人のようにひとりつぶやきながら帰りを急いだ。「本能」を背負わされた個が集って組織がつくられ、組織が集って国家が生れ、そこには他を殺してでも生きようとする本能――今日的「商業主義」が、ぐらぐら煮えたぎっているのだ。本能を背負わされた個としての人間の自由はどこにあるのだ? 表をたたかれ裏を打たれても自然からくる根深い本能の命令には反抗することは出来ないのか! ……そういう「自然の命令」に人間が反抗するということは本能の綱をプッツリ切りおとすことであり、そのツナを切り落せば、命のツナも切れることだ。本能が先か? 命が先か? 〈命は本能のプレミヤに過ぎぬではないか!〉
「集団がかなたこなたに集って国家がかたちつくられると、国家間においては、また、ツナヒキがはじまる。」我が家へ急ぐ彼自身もまたその「エゴ」のために父に背を向けた我が家へ彼はいま帰っていく。