2014年7月23日
人間と自然-9-3 荻野彰久・荻野鐵人
人間ほど信用の出来ないものはない。言葉は未開人でも使い、狂人でも云う。言葉だけでは思想ではない。「本能!」「本能!」という自分はその本能に左右されることはないか自然に翻弄されることはないか、人は彼の行動を見守る必要がある。
それから十日ほどして続けて人間二人を灰にしたK君の家は、森のようにひっそりと静まり返っていた。
妻は生れて来る子供の編み物に手を動かしている。彼はソファーに寝転んで新聞を読んでいた。と、玄関が開く音がして「書留」と声がする。腹が大きく梯子段の昇り降りがつらいので、「あなた出て見て下さらない」とそんな時妻は彼の顔を見上げる。彼は起きてトントンと梯子を降りていって見た。書留というのは彼の勤めている大学からであった。開けて見ると体裁のよい首切状であった。
「貴下の思想は現代日本の実状に合わぬのみならず本学の発展にも相容れざるものにつき…………云云」
彼はニガイ潮を感じた。が、その日の不幸はそれだけではなかった。父が突然脳出血で仆れたという電話がかかったのはそれから三時間も経っていなかった。彼は首を横にふった。父は前から腎臓が悪くM病院に入院していた。父の臨終に立ち合うのを拒んだ。
Carolを連れて三度父の見舞にM病院を訪ねた。が。三度とも部屋に入るのを父は拒絶した。「Carolを英国へ返してお前ひとりならば見舞も受けよう」というのである。
来るようにと報せたのは父ではなかった。親戚の意見だったのである。彼は断乎(だんこ)父の臨終に背を向けたのだった。
では、後日、何故父の遺産を貰ったのか、不潔ではないか、と親戚の謗(そし)りを受けるのも当然であり「自己保存の本能からじゃないか、エゴイズムじゃないか」と友人から笑われても仕方がないのである。「他に受取る人がないから、法律が僕のふところへ投げてよこしたから仕方がなかったのだ」というだけでは済まされないことであろう。
それはとに角、大学から追われた彼は、開業も出来ぬことを知った。医師免許書がないのである。医学者と医師免許とは別問題なのである。地方の大学なら椅子は二、三あると友人が勧めて呉れたが、どれもこれも「群盗」だと彼は首を横に振った。
しかし父親の遺産といっても知れたものだった。家邸と少しばかりの株券くらいのものだった。早速出かけていって知人の法律家N氏を訊ねて医師免許を申請する手続をとった。簡単だった。所轄官庁へ届を出しさえすればよかったのだ。
免許書がおりると彼は横浜に手頃な土地を買うことにした。が遺産を全部売却しても大病院まではとても手が届かなかった。高利貸から借り入れることも出来ず、結局広い土地に三十坪ばかりの小さい家を建てて医院開業をすることにした。開業してからの行動は世の一般の慣わしと同様、適当ということはあり得なかった。彼が大学でやって居た「小児麻痺の研究」と生活に必要な費用を開業によって得ようとしたのだったが、彼の診療はあまりにアカデミックだといって、友人の教授からの紹介患者以外の患者はあまり来てくれないのである。稀に患者が来ると、彼は看護婦から医者までを一人で兼ねていたので、どんな細微なことでもことごとく自分の手で検査をするのだった。患者の検便検尿は勿論のこと、血液検査からレントゲン写真の現像定着に至るまで、すべて自分でそれを為(な)した。大学では医局員まかせにほったらかしだったという訳ではなかったけれども、そうした直接患者の排泄物を観察する機会を奪われていたが、こうして何もかも自分でやってみると、小さい事柄も見直されるのだった。すると日々の診療も却って面白いものに感じられた。収入は少なく、Carolにも充分なことはしてやれぬのであったが、Carolもそれをよく理解し押入は検査室に、居間は研究室に、風呂場は実験動物の飼育室に使ってそれでも日々の生活は楽しく充足したものに感ぜられるのだった。彼は生活に小さい鍵を感じた。