2014年7月25日
人間と自然-10-2 荻野彰久・荻野鐵人
静かで平安なCarolとのそうした幸福な生活を患者たちはようやく奪っていきはじめるのであった。河川の堤防が切れたようにドット患者が押し寄せて来たのである。
広告しない「元大学教授」の看板が効いたのだという友人たちの冗談を内心そのまま肯定しかねていた。「良心的治療」をやっているときは来ないで、「非良心的治療」をやっているときは患者が集って来るのはどうした訳なのだろうか。はじめは大学でした如く、ゆっくりした姿勢で頭のテッペンから爪先まで聴診器をあてるように診て、一人一人の愁(しゅう)訴(そ)を同胞になったつもりで聴いてやっていたのであったが、こんなに患者がどっと押し寄せて来ると、いっちょう上り、二ちょう上りと患者をさばくのである。
はじめの頃こそそうした現象に対して疑問を持ち煩悶(はんもん)もするのだったが、そういう彼もようやくそれに慣れて来ると、数多くの患者が支払っていく金でそういう疑問や煩悶に蓋をさせられると診切れない患者、待合室からこぼれる患者も、尚、足りないと彼はどんどん患者を集めていた。(自然界から植えつけられた本能を充足させるため、キバをむいている意識下の「欲望」は彼には見えない。
感覚を使って患者を診察するというよりも、患者の顔だけを見て「診断」する「欲」に支配されていった。そのために子供のRaybitともCarolとも口をきく暇もなく、夜中の一時か二時に妻の傍のBedにもぐると朝七時頃には既に待合室には患者が充満していた。
「これが人生かしら……」と妻は夜よくBedで泣き、朝の食事のときにも不平をこぼすのだった。
「お前、何を言っているのだ。これだけの生活をするためには金が要るじゃないか」
顔を洗う暇もなく診察室へ出て、往診に走っていく………。