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2014年7月26日

人間と自然-11-1 荻野彰久・荻野鐵人

「こんなお忙しくっては先生のお躰が!」と大学に居るとき研究に来ていた女医Y子が或る日曜の夜ひょっこり訊ねて来て言った。そして彼女もゆくゆく小児科を開業したいから彼のもとへ来て働きたいというのである。
大学でも彼女はもともと職員ではなくタダの研究生だったので、いまここで彼女に来て貰ったからとて、大学に対しても一向に差支えはないことではあったが、折角やりかけた研究論文を中途で投げるのは惜しい気もされて、彼は黙って首を傾(かし)げていると、
「是非来て下さい。夫はあまりに忙しすぎますから――」とCarolがY子の膝の上に重ねられた手を握りながらいう。
「でも君、君の御両親が何といわれるかよく御両親とも相談をして決めることだろうけど、出来ることならば今の論文を何とかして纒(まと)めてからではどうかね」というと、
「わたし、先生の後任にいらしたT教授、大嫌いですの」とY子は下をむいていって、
「まア、宜しいですわ。わたし、女博士にならなくたって!」と甘えるようにいう。
歓(よろこ)んだのは妻であった。Y子が来るようになれば自分はどんなことを用意すればいいのか、そしていつから来てくれるのか、と妻はしきりとそればかり訊(たず)ねていて、もう帰るからもう帰るからといって起ち上ろうとするY子の手を握って、いつまでも椅子から起たせぬのであった。
桜木町まで妻と二人でY子を送りながら、「いくら忙しくたって、こちらは金儲(かねもう)け仕事の開業だ。こちらのことばかり考えないで、君は君の将来をよく考えて、軽卒なことはしない方がいい」と云うのだったが、
「まア、わたしのような者では間に合わないからいけないとおっしゃるのですのね」とY子は、妻が日本語の細かいニュアンスを知らないのを幸に、突然、こんな冗談口をたたき多少彼を不機嫌にするのだった。彼女はこんなことをいう女性ではなかったのである。同時に彼は多少うんざりもした。このくらいの美人なら、横浜には居ないこともないだろうけれど、人一倍自尊心の強いY子が、今夜はどうしたことか普段の彼女の気品からは余りにかけはなれている感じだった。
「大学教授」であったことに、特別のプライドを感じたことはなかったけれども、近頃、学問から離れていることに、すくなからずコンプレックスを感じているときであるだけに、開業医になりさがった自分を彼女は軽蔑しているのだ。と、一種の不快を感じないわけにはいかなかった。
「いや、そういう訳じゃない。それは君のような助手が一人来てくれればこっちは助かるけど、折角三年も続けた研究をどうするのだ。ぼくはそれをいっているのだ!」
「アナタは他人の自由を束縛するのですか? それは神さまだって――」Carolは笑った。
彼は変に苛々(いらいら)して来ていた。
「自由、自由といったところで人間には自由なんてありゃしないよ、働いて、苦しんで、そして死んで行くだけじゃないか!……人間は生れながらにして一種の死刑囚じゃないか、収容されている牢獄が広いか狭いか処刑期日が短いか長いかの相違じゃないか――それに、お前は神、神と云うけれども、神、じゃないよ。自然が「進化」と云う技術によって人間を創(つく)ったさ! そして人間は男だけでも2分の1、女だけでも2分の1、合わさって1さ」
全身ずっしりした疲労も手伝い、それに妙に気分が苛々(いらいら)してきていて、妻やY子には頓珍漢(とんちんかん)なことをいってしまった。
癇癪(かんしゃく)が起るとよくこんな性向がある。
「アナタは、又「自然」の話ね、すぐムツカシイ話ね。神さまからいまに罰せられるから!」Carolは横目で彼を睨(にら)んで笑い、Y子に寄り添いながら足をうごかしていた。



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