2014年7月30日
人間と自然-11-4 荻野彰久・荻野鐵人
「何がBye, byeだ!」と彼は急いで車を出した。背のびするY子よりもそれをそのまま受けている妻に腹が立った。急にハンドルを切って右へ廻ってしまった。風が煙のような粉雪(こなゆき)をフロントグラスへ吹きつけてくる。東横沿線の彼女のうちまで彼女を送るわけだったが、時々叩きつけて来る雪の微細な分子がクリーナとフロントグラスとの間に凍りついて、現代文明の利器もその無能を暴露していた。それに宵のうちに降った地面の雨水は氷に変り、やたらに車の輪を滑らした。
前方に白く霞(かす)んで見えるのは降雪にさらされた裸の電柱なのか動いて来る人間なのかよくわからず、雪の分子がヘッドライトに出会う様はダンスパーティにおどり狂う男女のように交錯(こうさく)して、視界は乱れて映るものばかりだった。
「危ないですわ、先生!」と客席のY子がしなやかな手つきで彼の後肩を叩いた。アクセルをさらに踏んだ。雪は風をともなって吹雪となった。視界は更に乱れた。
「――もっともワタシは先生といっしょでしたらこのイノチ惜しいとも思いませんけど!」とバックミラーに映る彼女は後ろに倒れながら何かに酔ったようにいう。〈だからいわぬことか!〉と彼は思った。〈妻と喋(しゃべ)れもしない英語を無理して喋ったり、背伸びした別れの接吻をしたりして、欣(よろこ)びに似た興奮がまだ彼女をつかんで放さないのだ。一緒に死んでもいいなどと、そんなうわずったことをいわせるのは、その興奮の残(ざん)渣(さ)なのだと彼は思った。必要以上にゴウマンな姿勢の彼女ではなかったか!外国人と喋ってキスをしただけで飲まずして彼女は酔っているのだ!だからいわぬことか!〉彼は更にアクセルを踏んでスピードを速めた。
危ない!前方から人が来た!と思った。急にブレーキを踏んだ。突然にY子が両手で彼の首を抱いた。眼がくらんだ。〈轢(ひ)いたか!〉アクセルを踏んだのかブレーキを踏んだのか解らなかった。頭から血が下るのを感じた。車はスリップして停った。扉を押して降りて見た。人間がフロントのバンパーの直ぐ前に横倒しにされている。かけ寄って男を抱き上げた。男の躰から異様な臭気が鼻をつく。
「大丈夫ですか!」男の顔をのぞき込みながら訊ねた。男は乞食らしかった。「俺は腹が減っているのだ!ダンナ!」生存意識に燃え立った乞食は薄黒い手の平を前に差し出した。
「よかった。先ず怪我がなくて何よりだ」とポケットから幾らかの金を出して乞食の手に置いて、救われたのは自分なのだと吻(ほ)っと安(あん)堵(ど)の息をもらすのだった。