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2014年7月31日

人間と自然-11-5 荻野彰久・荻野鐵人

「お手を拭(ふ)かなくっちゃ!」と、Y子はまるで夫婦のような言葉使いでハンケチを渡す。
「いや、ぼくの手はよごれてはいない」と彼女のハンケチで雪を払い落しながら、吹雪の中へ消えてゆく乞食の空腹に酔払った重い足どりを何ということなしに眺めていた。今夜の彼は孤独を感じていた。焦立しい感情の後によくこれが来た。妻と結婚してからでも、自分も不思議に思うくらい急にこれが来ることがあった。そんなとき彼はひとり石造りの王宮の前のベンチに腰をおろして、白や黄の菊の花を、いつまでも眺め入ったり、Clopton bridgeの上から、両岸の青々と茂った巨木の水面に落す影の間を、白鳥の群が泳いでいる静かな景色を眺めて故国を忍んだものだった。それは旅人の哀愁に似たもので、隙間風(すきまかぜ)のようにしてその感情が忍び寄って来るものだった。今夜もそれが来たのだ。
「先生、今夜どうかしていらっしゃいましてよ!きっとお疲れになったのよ。明日からわたしが先生のお躰の部分として働きますわ」とY子はいって首を竦(すく)める。
風はもうやんでいた。乞食の上にも雪が彼と彼女の上にもしんしんと降りそそいでいた。外国人の妻と永年棲(す)んでいると同国人の乞食にも何か近親感に似たものが湧いて来るのか、白いかるい分子の乱舞する中を呆然(ぼうぜん)と見守っていた。
雪がはげしかったので乞食の後姿はどこにも見出すことは出来なかった。あの老乞食は自分の国の中にいながら「異邦人」なのだ。見えなくなった乞食の身の上を思った。政治力の貧困なのかそれとも、われわれ人間には生れながらにして排他主義が植えつけられるのか変に今夜の乞食に一種の感(かん)傷(しょう)を覚えるのだった。「これも愛国心なのだろうか?」追われた大学の教授会で聞かされた「愛校心」や「愛国心」を思い出しながら秘(ひそ)かに呟(つぶや)くのだった。
「そうですわ、愛国心ですわ!先生がわたしに親切にして下さるのも一種の愛国心ですわ。先生はやはりわたしと同じく日本人なのよ」とY子は首をすくめながらいう。
「ええ?」ワレに還ったように彼は彼女の顔を見た。軽やかに雪が降りて来る。ほんのりニオウ様な彼女をヘッドライトは写し出していた。二人が車のところに戻って乗ろうとしたときであった。
「先生、わたし寒いのですの」と彼女はぶるぶると肩をふるわせながら媚(こ)びるようにいう。
「わたし少し液体をちょうだいしていいのかしら?」「液体?!」人通りの絶えた夜更けの街に鋭く彼の声が響く。
彼女は一瞬恥(はずか)しいのか顔を染めてうつむく。
「だって医局で先生の送別会のとき飲みましたわ。そのときはわたし何ということもなく悲しくって!」
「でも君、もう時間が――」
「あら、あそこですわ先生」と彼女は二十米(メートル)ほど離れた灯を指さしながらいう。
このあたりは彼女の朝夕の往復する路らしく、何処に何の店があるのか彼女はよく識(し)っていた。
彼女の乗るのを待って、幻(まぼろし)に向って車を動かしていった。



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