2014年8月6日
人間と自然-11-9 荻野彰久・荻野鐵人
あんなところへ何故入ったのかそれすら彼には記憶がない。朝フッと眼が覚めて見ると自分は彼女と床を伴にしているではないか! 働き過ぎ疲れ過ぎた彼は、近頃睡眠不足の朝などよく大学の研究室で徹夜している錯覚に捕われることがある。錯覚に陥(おちい)っているかも知れないと彼は思った。彼は首を挙げた。Y子を見た。黒い髪はブロンドのCarolではない。Y子の大きい頭はCarolの頭ではない。丸味を帯びた小さい鼻を見た。鋭く高いCarolの鼻ではなかった。丸い顔、長いCarolの顔ではない、小さい口、大きいCarolの口ではない。畳の床、CarolのBedではなかった。夢ではない。錯覚でもなかった。昨夜のことを彼はうっかり激しく降っていた雪のせいにしようとした。が、それはしかし噴火口のようにいつもどす黒い口を開け、オス、メスの本能を操(あやつ)っている自然の落し穴のためだという口実を彼は心理の底に用意していたのかも知れなかった。
でも流石の彼も〈男がこれくらいのことでイチイチ不潔感を抱くようでも!〉とは思わなかった。
雑念の洪水のなかでハンドルを握り車を走らせていた。人が出て前を掃いている家もあり積らせたまま未だ寝ている家もあった。犬の群が走っていく狭い路地では、轢(ひ)きそうになる前方の犬にクラクションを鳴らした、犬はいったん前にのめるようになって停り、あたりを見廻わしてから後ろへ逃げていった。異なった街のなかへ入ると、雪投げに子供たちが騒いでいた。坂道に来ると道具まで持ち出してスキーの真似をしている若者の姿も見られた。近道々々と走っていた車は、ようやく広い道路に出た。未だ早かったので人があまり通らず、道が広いので思い切り車を走らせることが出来た。道が広いのは線路があるためで、白い道の真中を二本の黒いレールが東西に流れていた。Y子の家は昨夜彼女から聞いたところでは何でもこの線路を横切り、再び線路を広場に沿って戻って行かねばならなかった。踏切がある筈だと前方を見ながら車を走らせていた。人が渡って来る。踏切だ。遮断器が降りる前に横切ろうと車をいっそう速く走らせた。が、遅かった。着くと遮断器が降りてしまった。