2014年8月11日
人間と自然-12-1 荻野彰久・荻野鐵人
一方二人の仕事量を一人でするのだから更に忙しく、更に疲れ、更に焦々するのだった。
その頃診察に来て知りあいになった貿易商会に勤めているフランス人Pierre(ピエール)さんの家へ妻は夜などRaybit(レイビットt)を放って置いてまで、こっそり遊びに出掛けていくらしかったが、それは彼に対する妻の最大の反抗のようにも感ぜられ、しばらく静観と黙っていた……。それからしばらくして即ち妻に背信行為して一月ほどたった夜であった。
「あなた、あの手紙どうしましたのですか?」と子供に画本を見せていた妻が、シャツの着替えをしている彼に訊ねた。
彼はハッとした。いつか雪の降った夜、Y子を送りに出る時、出しておいてくれと妻から、ロンドン向けの彼女の実家への手紙をすっかり忘れていたのである。ポケットにそのまま入っているに違いないと表の上衣のポケット、裏のポケット、それからズボンのポケット、手を入れて探したが問題の手紙は入っていなかった。その夜着た洋服を思い出しながら洋服ダンスを開けると黴(かび)くさいニオイではなかったけれど変にムッとした臭気が鼻をうつ。七月下旬の時候でも清々しいイギリスの気候しか頭になく、いつまでたってもお前は日本の土用干しということをしらないから冬になってタンスのなかがこんなにニオウのだと一瞬怒鳴りたい衝動にかられた。が、さすがの彼もこんなことでは妻にケチをつけられなかった。タンスのなかの夏服のポケットまでさがすのであったが問題の国際郵便はどこにも見出されなかった。
「ぼくのタテジマの服は?」と焦立たしげに訊くと
「Regent streetで買った服のことですか?」妻は南の壁を指さした。幸い妻の手紙の長い封筒は真中で二つに折れて、近頃はあまり着ないこの服のポケットに入っていた。
「いいですよ。どうせその手紙はadjustせねばなりませんから」妻は無気力にいって伸ばした手で受取るのであったが顔はこちらへは向けなかった。
妻のadjustといった言葉のニュアンスには「修正」という意味以上の、一月前の自分は幸福だったが今はその反対なのですという響がゾクット彼の皮膚にツタわってくるのであった。……〈そうだ。妻とこの洋服を買いにRegent streetにいったときはやはり正月だったが日本のように寒くなく霧のかかった雲間から、位置の低い太陽が弱く照っていた……〉
又雪になり翌日も雪になった。三日目には晴れたが風が吹いていた。