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2014年8月12日

人間と自然-12-2 荻野彰久・荻野鐵人

「Martine(マルティーヌ)が吐く」と例のフランス人のPierreさんがあわてた様相で呼びに来た。路順は妻から聞いて知っていたので急いでカバンを提げ、ザクザク雪の上をタイヤを軋(きし)ませながら往って診ると、インフルエンザ性消化不良かと思われたが熱はなかった。これには適量のモルヒネ(阿片チンキの形で)が特効を見せることがある。病状を親に説明して一本注射をし「御心配はいりますまい、明日にはミルクを飲むようになりましよう」というと、患児のベッドの傍にかけていた母親もうっかり笑い出し自分の豊かな乳房を指さしながら、
「いいえ、じつは今もわたしの乳を少し飲んだところですけど、心配だったから念のため、ドクターを迎えに行って貰ったのです」と云った。
帰って来ると、看護婦が朝の掃除をしているらしく待合室、薬室、診察室の椅子はすべて机の上に倒形に置かれてあった。奥の妻のところを覗くと、ベッドの上でレイビットに服を着せている。
「ミス ヒサは?」と妻に看護婦のことを訊くと、
「さあ、いまそこで掃除をしていましたけど」と妻はすげなくいう。彼はカバンを提げたまま廊下伝いに診察室に戻り、開かれた待合室をのぞき、それから薬剤室を見た。看護婦は薬剤室の隅の水道栓を片手で握って首を垂れたまま眼をつぶっている。彼女は居眠りをしていたのである。彼女もねむいに違いなかった。連日多勢の患者で看護婦たちはここ二、三日殆んど睡眠らしい睡眠をとっていなかった。
彼女の過労は、妻から注意されるまでもなく彼も見て知っていたが、適当な看護婦が見つからぬところから増員が延びていた。
「薬をつくってやってくれないか」と彼は診て来たMartineの病状や処方を記載したカルテを渡しながらいうと、びっくりしたように看護婦は足をばたつかせて、直立不動の姿勢になる。が、口角に白いよだれの跡を見せていた。何をあわてたのか調製用の乳鉢を腹のなかへ隠してしまう。看護婦は寝ぼけたのである。自分が看護婦を起したのかと思ったが実はPierreさんがそのときは既に来ていて、小窓から手を入れて居眠りしている看護婦の頬を小指でつつきそれで看護婦は余計びっくりしたのだ――とPierreさんは云って子供の薬をポケットに入れながら帰っていった。



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