2014年8月13日
akira's view 入山映ブログ 評価(3)
およそ一ヶ月ぶりの「評価」再論である。
理想的な賢人政治と衆愚政治に堕した民主制、品行方正なヤブ医者と身持ちの悪い名医。どっちを選ぶか、といわれたら下心は見え見えだろう。さすがにこのあたりまでは簡単に引っかからないくらいの知恵はある。だが、上げ潮路線と増税、ODAか社会福祉か、というあたりになると、少しうろたえたりする。ことほど左様に、問われていることがらの中身を把握すること、ましてそれに正当な判断を下すことは簡単にゆくとは限らない。
タネ明かしを先にしてしまうと、異なった価値観や優先順位を持った人々が、自由に意見を交換し、そのプロセスが皆に共有されるしかけが大事で、それが保証されているところでは妙なドグマに振り回されたり、権威主義的なご託宣にうっとりする危険性は避けられるし、逆にそういうしかけのないところでは民主主義は危うい。
このしかけのことを市民社会と呼んだり、民間非営利活動の活性化といったりするのだが、まあ、呼び方名付け方はさしたる問題ではない。それより、いろいろな意見の中にはとんでもないものもあったりするから、やはり「めきき」のような機能、さらには雑多な情報の交通整理のような役割を持つ組織が必要になってくる、という点が重要になる。これをオカミがやったのでは何のことはない官僚主義がはびこるだけの話だから、どうしても「民」の手によってこれを担おうではないか、ということにならざるを得ない。
ということになると、そうした機能を持つ組織が果してしっかりした識見を持っているか、偏った立場にとらわれていないか、といった「しかけ」それ自体の評価が存在したらとても便利なことは見易いだろう。そういう「評価」の洗礼を受けた組織は、今度はさまざまな意見や施策を「評価」することになる。
先にも(5.2/5.9)述べたように、さまざまな目的を持った評価が可能である。どうも近所にできた公園にかけたオカネが高すぎるようだ。公園の管理を業者委託したら、それまで地域住民の要望をくみ上げていたチャンネルがなくなった。公園にあるカフェのサービスが悪い上にまずくて高い。このごろ公園にゴミが目立つが清掃はしっかりやっているのか、等々。公園を巡っての税金の使われ方一つをとっても、これほど様々の評価対象があり、情報公開のタネがある。いわんや、ということだ。
まともにオカネが使われているかどうか、というのは、しかし、評価対象のほんの一部に過ぎない。それ以外にも、両立が困難だと思われる価値相互間の比較、いっていることとやっていることが一致しているかのチェック、等々この道具には使い勝手がいっぱいある。そして、評価対象のみならず、評価結果の公表の仕方も同様に重要な点だ。最近はやりのマニフェストにしても、何のことはない選挙公約の看板を塗り替えただけで、各党が勝手に云いたいことを書き連ねているだけならばほとんど意味がない。大きな争点である、と思われるイシューについて各党の立場をヨコに比較できて始めて意味のある情報になる。
そんな重宝な手法にも泣き所があって、ひとつはどれ位のオカネをかけて評価をするか。公正な評価者をどうやって選ぶか。評価結果が現実の業務執行に反映される保証があるのか。というのがその主なものだ。特に最後の点は、外側だけ取り繕って実は裏で舌を出している性癖のある相手を向こうに回した時には一番注意が必要な点だろう。(この項続く)
2008年 06月 18日