2014年8月13日
人間と自然-12-3 荻野彰久・荻野鐵人
それからCarolとRaybitに食卓でお天気のことを話し裏庭の雪を取り除く人夫のことを話した。食事が済むと彼は診察室へ出て外来患者を診察しはじめていた。
五人目の患者を診ているときであった。
「先生、わたし大変なことをしましたァ―!」と腹に乳鉢を隠した看護婦が薬剤室から走って来て云う。口はひきつって眼は丸く鋭く顔色はひどく青ざめている。彼は診察最中だったのと、それに診ている患児の母親も傍にいることなので彼は故意にゆっくりとした調子で椅子のうしろにもたれながら
「どうした?」と軟かい音声で訊ねた。
看護婦はうつむいて黙り、そのうちにウワツと泣き出した。いつも笑ってばかりいる子供っぽいこの看護婦はどうしたと云うのだろう? この取り乱しかたは何か重大なことを
犯してしまったに違いないと彼は直感するのだったが、できるだけ気持を落ちつかせるため、あいだに時間を挟んで声を優しく、
「云わなければ解らないが、どうしたのだ? Raybitでも泣かせたのか?」と訊くと、二才のMartineに渡したモルヒネの量を間違えたと云うのである。0.3グラムの阿片チンキを入れるところを30グラムも入れてしまったと云うのではないか!
30グラムならば大人がのんでも死ぬ。職業意識から戦慄が躰の中を突っ走っていくのを感じたのは自分が殺人罪に問われると直覚したからであった。自分の頭の中で何かがしきりに衝突するのを感じた。彼は頭を挙げた。正面の柱時計を見た。ワイシャツの袖をめくった。腕時計を見た。Martineが、モルヒネ入の薬を飲んで何時間経ったのかを調べるためであった。十一時十分過ぎであった。待合室に残っている二十人あまりの患者を蹴飛ばすようにして白衣のまま、くつ下のまま表へ飛び出した。