2014年8月18日
akira's view 入山映ブログ 諫早
諫早湾干拓をめぐる争いについて、佐賀地裁が27日に排水門の常時開門を命じた。干拓事業によって有明海の漁業環境が悪化したか否かは、なお検証を要するであろうし、この判決も下級審であって、別に確定したものではない。因果関係についての科学的立証は将来に待つにしても、この事件には、争点の真偽とは別に、予算主義の硬直性や、官僚の本性ともいうべきありさまを象徴的に示す諸点がみごとに現れている。つまり、国や地方自治体において、一旦方針が定められると、その「位置エネルギー」がいかに巨大か。裏からいえば、世の中がどのように変わろうとも、一切おかまいなしに既定方針を愚直に貫く、というおそるべき日本のシステムが、また一つ浮き彫りになった。
諫早湾干拓事業の原型が策定されたのは‘52年である。戦後の食料危機に対応すべく「食糧増産五カ年計画」が発表された2年後だ。いうまでもなく、干拓によって農地を増加させ、食糧(当初は米)を増産しようとするものだった。それから30余年経った’89年にこの工事は着工される。その30年の間に何が起こっているか、この計画自体の正当性についていささかの疑念を抱かせるような事態は起こっていなかったのだろうか。もちろん「後知恵」は常に正しい。しかし、それを割り引いても、この壮大な計画のほとんど滑稽ともいうべき推移は、予算主義、官僚主義の典型的なありかたを示すものだ。
時を同じくして食糧増産の為に行われた干拓事業として最も有名なのは八郎潟干拓事業だろう。こちらの方は諫早の原型が策定された‘52年には早くも着工され、’64年には完成して全国から募集された農家が営農を始めている。干拓規模も諫早の700ヘクタールに比べて1万7千ヘクタールと桁違いに大きい。それから間もなく、米の増産どころか食管制度が仇になって米が余りだし、‘70年には所謂「減反政策」が開始される。この時有名になったのが八郎潟における「青田刈り」の強制と農民の抵抗であり、’75年から‘78年にかけては、干拓事業そのものの問題点や、米から他の農産物に対する転作奨励をめぐっての軋轢は既に日本中が知るところだった。
にもかかわらず諫早湾干拓事業は「計画通り」‘89年に着工。問題の排水門締め切りは’97年に開始される。41営農者も入植する。この工事には2千5百億円の税金が投じられたから、おおよそ農地1平方メートル当たり3万6千円くらいで農地を新たに造成した事になる。問題はしかし、その経済効率ではない。現在世論を賑わしている道路計画と同じで、何十年も前に策定された計画が、その間に起きている世の中の出来事、情勢の変化おかまいなしに、着々と実行される。そのおよそ非人間的な不気味さであると言ってよい。既得権益化してそれに群がる魑魅魍魎もいるだろう。しかし、ことはそれだけの問題ではないように思う。国の政策は、一年二年の短期的視野のみならず、長期目標と計画が求められるのは理解できる。しかし、その美名のもとに、見直し(レビュー)や評価がないがしろにされ、既定の計画が金科玉条になってしまう、というのが現実ではないか。このメンタリティは、社会福祉から憲法改正をめぐる議論にまで共通しているといってもよい。民主主義は議論の対象に聖域を作らない。また、理念だけではなく、それをいかに実施に移すかという知恵も同様に重大なのだ。さて、役人の固い頭を解きほぐす良い知恵はないものか。実はあるのです。それをこのブログは再三にわたって力説しています。読んで頂いている方々の支持をこそお願いしたい、なんて早手廻しの衆議院選挙みたいになりました。
2008年 06月 29日