2014年8月19日
人間と自然-12-9 荻野彰久・荻野鐵人
走っていく。〈さああとは、僕はどこへ行ってこのことを訴えたらいいのだ?〉息を切らしながら走っていく――
重い足どり、額の油汗、苦悶はあまりにも人間的な姿、苦悩そのものだ。顔はほとんど泣いている。Martine、Martineと叫びながら、走っていく。疲れ切った足運びは地面にねばりついている。Martineの家へたどりつくまでには彼の方が先に仆(たお)れて死ぬかも知れぬ。息はもう続かない。ハァハァと息をはずませながら、尚も一歩一歩足を動かしている。
――声をかける――〈白い長いヒゲを生やした躯の巨大なお爺さん、あなたが全宇宙を支配し管理している「神」ですね。じゃ、あなたですよ、Martineを殺したのは!〉
〈誰がいったのだ?そんなことを!〉
〈ぼくの妻がいいました。トラックの運転手もいいました。セールスマンもいいました。ずっと昔、僕が教えて戴いた恩師もそういいました〉
〈彼らは何だといっているのだ?〉
〈神、あなたがMartineを殺したのだと!あなたが生存競争をさせているのだと!あなたが戦争をさせているのだというのですよ〉
〈どうして、わたしがMartineを殺したことになるのだね?〉
〈あなたのゼンマイが強過ぎたのですよ〉
〈ゼンマイ? わしは時計屋じゃないよ。わしは神だよ〉
〈ええ、分っています。だからこそあなたがMartineを殺したことになるのですよ〉
〈解らんね。君のいうことはちっとも解らんね〉
〈あなたが人間の背中に巻いた「本能」のゼンマイが強すぎたのですよ。僕はこのゼンマイをあなたに返品したいのです!〉
〈君!ものは考えて言うがいいぜ。そのゼンマイをわたしに返品するなら、君の命はその瞬間から消えてしまうのだが君、それでもいいのかね?〉
〈え?!命が消える?もっとはっきりいって下さい。具体的に!〉
〈本能が無くなると君は死ぬのだよ〉
〈どうしてですか。僕の命は僕のものです。それともあなたのものだとおっしゃるのですか?〉
〈そうさ、当り前じゃないか! 君はワシなしで勝手に生れると思っているのか!自由意志で生れてきたと思っているのか!〉
〈じゃ、僕のこの命、これは「本能」のプレミヤだったのですか?〉
〈そうさ、実をいうとワシは子孫が沢山欲しかったのだよ。「種(シュ)」がね。それにはどうしても本能をくっつけねばならず「本能」をつけるには命というプレミヤをつけねばならなかったのだよ〉
〈じゃ、いいですよ。僕は未だ死にたくはありませんから。でもあなたは不公平だ!〉
〈不公平?〉
〈不公平ですとも!だってあなたは同じ生物でも、植物――モノによっては何千年という齢をアタエておきながら人間には僅か七、八十年、それでしかもそのワズカの期間を苦しめて々々、あげくに殺すとはひどいじゃありませんか!どれだけ人間を苦しめればあなたの気が済むのですか!〉
〈君は解らんね。君にも幸福な時間もアタエてある筈だ。だが君の記憶は苦悩にしか反応しないのだよ。ものはとりようだ!マァ君、そんなことを考えているヒマに早く君の妻のところへ行くがいい!〉
〈妻?〉
〈そうだよ、Martineを殺したのは現代文明だといった君の妻のところへ戻るのだナ、それともMartineは未だ生きているかも知れぬから早くそっちへ先に行くか〉