2014年8月20日
人間と自然-12-10 荻野彰久・荻野鐵人
走っていく、最後の力をふりしぼって走っていく。
〈現代交明だと妻は言ったっけ! そうか。そうだっだのか。「現代文明」が僕の欲望を充足させるために僕の本能をいつも刺激していたのか〉Martineの傍へ走っていく。走らされていく。〈そうか。そうだったのか――すると「現代文明」が進めば進むほど僕は第二第三のMartineを殺すことになるのか。そうだったのか
走っていく。Martineの家の赤い屋根を見つめながら走っていく……
ようやくたどり着いた。ノックもせずに這入って行った。……子供用ベッドの上に寝かされているMartineの顔は青白くむくんで見えた。近づき小さな白い手をとって脈を診た。脈は殆んど触れなかった。小児科医ならば誰にでも直ぐそれと解る「死相」が小さい顔全体に覆いかぶさっていた。眼(がん)瞼(けん)は垂れ下り、唇は紫にふくれ細い呼吸は、間がゴムヒモのようにのびて忘れたころに息を吐く。愛らしく美しいMartineは死に神と闘っていた。あわただしく六本の注射をプスプス射してもMartineの心臓は動き出そうとはしなかった……。
Martineは麻薬の急性中毒で死んでいった……。Martineの胸に母親は顔をたおして哭(な)く……。父親は「今朝まで乳を飲んで生きていたのに!!」と更に嘆(なげ)く。
人のいいこの若いフランス人夫婦は我が愛児が――寿命で死んだと信じているらしかった――医者にかからなかったら殺されずに済んだのだ――とは思ってもみないらしかった。
〈治療とは自然の奥にひそむ疾病を治そうとするよりも殺さないことから始めなければならない!〉と彼は激しく思うのだった。
「Mercy(メルシー)! Mercy!」と夫婦は変る々々起って彼の手をもとめた。何がMercyなのか針を呑まされる思いだった。
「本当に親切でした」と若夫婦は本気で感謝をしているらしかった。