2014年8月22日
人間と自然-12-12 荻野彰久・荻野鐵人
「さあー」と道を戻りながら考えた。
「僕が実はあなたのお子さんを殺したのです!」と何時あの父親に真実を告げ、判決を受けるべきか、トンネルのような暗い壁を両側に感じながら歩いていった。重い足はそれでも一歩一歩自家へと近づいていく。
いつか雪の激しく降った夜、Y子と二人で車で走ったとき出逢った空腹に酔っぱらった乞食がまだ記憶の中で仆れていた。異国の妻Carolを認めなかった周囲への復讐心もいまは空しく消え去り、〈人類の体質研究所〉も希望から消えていった。追われた大学の研究室よりも更に大きい実験室をつくる胸算用も情熱から溶けていく。忙しく立ち働かねば喰っていけず、忙し過ぎると異常が飛び出して人を殺す。根源が自分の無理な欲望に尾をひいている以上、自分の手から放たれた矢はいつか自分に向っているのを感じないわけにはいかなかった。
妻とRaybitと看護婦が、門口に立って見ているなかを虚(うつ)ろな眼で近づいていくと、「Martineは無事でしたの?」と妻はRaybitの手をふりはらい、恐ろしいものでも見るように訊ねた。彼はいま観て来たMartineの死に顔の印象が心に刻みつけられてしまっていた。
「死んだ」力なくこたえると妻は看護婦が持っていたカルテを彼の眼の前に掲げて見せ “Your letters” (あなたの字よ)と処方のところを指さす。阿片チンキ30グラムと書いてあるのは、確かに彼自身の字であった。小数点を落したのは看護婦ではなかったのである。カルテを受取ったまま中へ入り、白衣を脱いでオーバーに手を通した。
何処へ行くのかと妻は訊ねた。黙ったまま子供にキッスをし、出ようとすると何処へ行くのかと妻は訊ねる。警察へ行くのだというと、“Just a moment”、と妻は云い、つかつかと書斎へ行ったかと思うと、部厚い彼女の聖書を持って入って来た。それを開くと掌をここへ乗せろという。勿論誓えという意味なのである。
既に人間を二人も殺したのだから、もう医者という職業はやめて欲しいと彼女はいうのである。一人はMartineであることは勿論であるが、他の一人は女としての妻自身だという意味に彼は勝手に受取るのであったが妻はY子から彼女宛の封書を示すのであった。