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2014年8月25日

人間と自然-14-1 荻野彰久・荻野鐵人

妻がどうかこうか自分を取り戻すまでの二ヶ月間の病院生活から退院すると、すぐ妻を連れて旅に出た。九州、四国、新潟と廻ったが佐渡島に逗留中に見た動物風景を思い出す。――宿の隣が、庭に紅梅や白梅の咲いている百姓家だった。
「可愛らしい仔牛が産れましたよ」と宿の女将に勧められるまま、それを見に彼ら夫婦は出かけて行った。
生後七日目とかいう真黒い艶々した仔牛に、股を開いた母牛が乳を吸わせている。……妻と彼の歩いてくる気配に仔牛は吸っていた乳首を離し、首を延ばして此方に見とれている。その間にも母牛は、さも可愛いように、長い舌べろでペロリペロリと仔牛の肌を嘗(な)めている……。しばらくそれを眺めていた妻は、ハンカチで鼻を押さえながら
「親子ですね」と溜息(ためいき)声でいう。
「うん、本能だよ」彼は応(こた)えた。
その時、足音がして話声が近づいて来る。
母牛は急に不安げな丸い眼付になると、首を挙げて、あたりを見廻わしはじめた。
仔牛の買手を農夫が連れて来たのだった。
彼ら夫婦は、聴くともなく買手売手の会話に、耳を傾けていた。
本当に美昧しい「ハム」は、生後七、八日目の仔牛の肉が一番いいのだということなどを、肉屋の男が農夫に説明していた。
買手売手の話は、纒(まとま)ったらしい。
肉屋の男が愛想笑いをしながら藁(わら)の敷いてある牛小屋へ這入ろうとすると、母牛は俄(にわ)かに警戒の眼を光らせはじめた――自分の躰で子供を庇(かば)うように肉屋の前に立つ。邪気を知らない仔牛は、宿敵とは知らずに差し出した肉屋の手に口をもって行く。すると母牛は行って肉屋と仔牛との間に入って立つ。眼には怒気すら含んでいる。仔牛が動けば母牛も亦動く。牛小屋のなかを母牛は西へ東へと、仔牛を隠すように動く。母牛は落ちつかぬらしかった。我が子が殺され、「ハム」にされる肉屋の話を、母牛は既に聞き識(し)ったかの様に……。
「こんな子供を殺すのですか!」妻は何故か突然青い顔になった。声は既にふるえている。
「帰ろう!」彼は妻の袖を取って促すのであったが妻は肯(うなず)かなかった。
オスとして生れるか、メスとして生れるか、――それは生れて来る子供の責任ではない。が、オスとして生れ出た仔牛だけがこんなにすぐ殺されて「ハム」にされる宿命を、既に母体内から荷(にな)っているのだ。これが若し人間ならば堪(たま)らないことだと彼はむしろその方の話に一種の興味を覚えるのであったが、妻は仔牛が殺される話だけに一心に聴き入っているらしかった。
「いまからついでに屠(と)殺(さつ)場へ行くから」と肉屋が仔牛を連れ出そうとして農夫にいう。農夫は荒縄を持って来て、肉屋の男に渡す、男は仔牛の首に縄をかけた。
首をくくられている仔牛を、母牛は大きい眼でじろりじろり眺めている。
そのうちに仔牛がいよいよ肉屋の男の手で牛小屋から外へ引き出されると母牛はいたたまれないらしく頻(しき)りに足を動かしとび出して仔牛の傍へついて行こうとする。が、くくりつけられた鉄の鼻環に引き留められる。仔牛は首を廻わして母牛を見ては啼(な)く。それを見て母牛の白い眼が光る。首縄を肉屋の手に預けたまま仔牛はしきりに啼く。母牛は苛立たしげにぐいぐい鉄の鼻環に引き留められながらも、あっちこっち牛舎のなかを動き廻っている。
そのうちに仔牛の後姿に、母牛は目をすえたまま立ち停った。しばらくそのまま仔牛を見つめているかと思うと、大きな口を開けて空しく啼く……。それはメーでもない、モーでもない、低く重く幅広く濃霧のように大地へ拡がっていく啼声であった……。
肉屋の手に引かれていく仔牛が鳴きながら一脚二脚と母牛の視界から歩き出し、いよいよ門口から姿を消してしまうと、その間中ずっと放さず眼で追っていた母牛は、じっと子供の行った方へ目をすえた。耳だけその方向へ立てて、啼こうともしなかった。目も動かさなかった。しばらくじっとしていた……。
そのうちに瞼が動いた、動かさなかった眼球の緊張のせいであろう、何か水性のものがキラリと光った……。
妻は突然泣き出した。
「動物のことじゃないか!」彼は妻を抱きかかえるようにして、足早に宿へ引き上げてしまうのであった。
女を創り男を創ったものは何であろう?
そして、これほどまでに強靱な愛を植えつけたものは何であろう。
運命、偶然、自然、これらを勝手に「神」と考えていた彼は、人間世界に於ける愛の悲しみは、はるか下等動物から継承されて来ているのを見る思いにさせられるのであった……。
それからでも妻はよく、
「わたしは長生きしたくはありませんよ」と云っていた。



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