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2014年8月26日

人間と自然-14-2 荻野彰久・荻野鐵人

長男がモンテンルパで戦犯に問われたと、戦友Kさんから手紙を貰い、彼に逢いに名古屋へいく汽車の中で妻は云った。
「生きていることは何と素晴しいことでしょう! でも、生きていくことは何と苦しいことでしょう!」
英国に生れた妻は、英米を敵に廻わして闘っているこの戦争に日本人との間に生れた子供を戦場へ送るについては気持のうえで何か未だ釈然としない感情のシコリがあるらしかった。戦争の末期のことである。船の交換以前に長男は妻の実家から徴兵検査に帰国して来ていた。
健一が帰ってからでも、妻が英国人である関係から、米人といわず英人といわずよく客があった。互の国が交戦状態にいるからといって、前からの友情を急に引き裂くことも出来なかったが、防諜(ぼうちょう)のやかましい時だけに、出来るだけ妻は断っていた。

「健一は何処だ!」とどやどやっと、五、六人の憲兵隊員が靴穿きのまま床の上にあがると言った。
突然の寝込みを襲われて、妻はネグリジェ姿のままぶるぶるふるえていた。彼の後ろへ隠れるようにおどおどして
「あなた! あなた!」と声をつまらせている。
隠した訳ではなかった。病気だった健一のその旨を診断書を添えて届けて置いたのだった。
彼がそういったが何故か激昂(げっこう)してしまった憲兵隊員は土足でベッドを蹴り、表へ寝具を放り、押入を開け、天井へ向ってピストルを放つと、「健一! 出て来い!」一人が叫ぶと、「出て来ないと射ち殺すぞっ!」と他の者がいってドーンと射った。天井板に孔が開き、土埃(つちぼこり)が砂を運んで嵐のように落ちて来る。細い孔から天空の月が光を投げてよこすほどになった。火事にならぬのは幸だった。
「君、そんな乱暴なことをしなくたって」と彼がとまどいながらいうと、憲兵は彼を突き飛ばし土足で蹴った。彼は仆(たお)れ、鼻からドッと血が流れた。重なるように妻が来て彼を庇(かば)い、両手をまわして彼を包み、額を彼の胸に押して泣く……。
彼等が引き上げて行ったあと、若し病院まで押しかけていって、何か手荒なことはいないだろうかと、妻は手をもみ合せながら哭(な)いていた。
生来胃が弱い健一は、召集令状を貰う十日前突然大量の吐血をしたために手術を受けて、未だ大学病院の友人の外科に入院中であった。
「わたしも行きます!」と気になって出掛ける彼の後ろへ妻が泣く泣く附いて来ていた。
バスはもう終っていて、省線も終電車にようやく間に合うくらいだった。阿佐ケ谷の駅まで行くのに妻は何度も休んでは駈けていた。お茶の水で降りると本郷まで歩いた。天空の寒月だけが無気味に冷たくあたりを照らしている。
徒歩で二時間もかかってようやく夜中に病院に辿り着き、訊いて見ると、健一は既に連れ去られた後であった……。
〈歩けもしない病人を、どうするつもりだろう?〉彼は途方に暮れ、病院玄関の三和土(たたき)のうえにしばらく荘(そう)然(ぜん)と立っていた。
妻はオーバーの襟を握りしめながらあちらこちら歩き廻っている。
「仕方がない。九時になったらA連隊へ行って見よう」彼は妻の肩を持ってすごすご帰るのであつた……。
健一は、その夜おそく十時過ぎに帰って来た。
入って来るから健一は黙っている。
「額のその傷はどうしたのだ?」
健一の腫れ上った額や頬に赤く血が滲(にじ)み出ているのを見て彼は訊ねた。
「胃を切った後の傷が未だ生々しく、痛くて直立姿勢にうまくたてなかったのだ。ピインと背筋が伸びていないと、奴らがぼくを擲(なぐ)りゃがったんだ!」眼に涙を浮べた健一は唇を噛みしめていう。
アメリカインディアンのように健一の顔や額に赤チンを塗りハンケチを細かく裂いて翻帯を施していた妻の眼からは、ポタリポタリ涙が健一の膝の上に落ちる……。
健一は上衣を脱ぎ、シャツをめくり上げて、一本一本肋骨の透けて見える胸壁を指で示した。何かムチ跡らしいものが縦横に赤く血走って見える。
瞬間、妻は両掌で眼を覆った。
「飛行機から米兵が降りて来たときの訓練だと俺を練習台にしやがったのだ!!」健一はこらえきれず泣き出すのだった。
「黄色い人」と馬鹿にされると〈早く日本に帰って兵隊になるのだ〉と若者らしい「愛国心」に燃えて帰って来た健一だった。病気になると早く入隊したいと口惜しがっていた。それが眼が青いばっかりに米兵の案山子(かかし)にされるとは、健一は思っても見ないことらしかった。
妻はBedの上に顔を伏せて哭いている。
じっとしていられず彼は立ってみたり坐ってみたり……縁の下へ降り下駄をはき、意味もなく裏庭を歩き廻っていた。
黒いカーテンの破孔からもれる室内の光が裏庭に落ちてまばらに光の集落(コロニー)をつくっている。
「これは誰がした!」突然健一は顔を挙げると言った。
彼は健一が子供の時のように母親に甘えているのだろうと思った。
「いまは戦争だ。戦争のときは誰でも何らかの意味でどこか痛いさ。若いのだ、じきに直るさ」彼はむしろ健一を慰めるつもりで言った。
が、肌が血走るほど傷ついて帰って来た健一には、それはかりにも慰めにはならないらしかった。健一は早口でいった。
「父さんには分らないことなのだ!」
「うん、直接にはどれほど痛いか分らないのかも知らないが、子供がそれだけの傷を負わされて帰ったのを見て親が何とも思わぬ訳はないさ」彼は同じ歩調で裏庭を歩き廻りながら云った。



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