2014年8月28日
人間と自然-15-1 荻野彰久・荻野鐵人
戦争が済んで見ると、戦敗国兵は当然重い刑罰を受けなければならぬのであった。
健一はモンテンルパの刑務所の中で死刑に処せられたのだった…………。
幅は広くなかったけれど水量が多く川は勢よく流れていた。幾分高い向う岸から斜面に麦畑が拡がり、芝草ほどの若い麦が冷たい風にふるえている。麦畑の巣から稜線がはじまり、遠い方の高い峯に初冬の雪景色が見えた。峯は蒼い澄み切った空へ連なっている。
彼と妻は流れに添って水源の方へ登っていくのだったが、足が痛いと妻は時々しゃがみこむ。その間、彼はぼんやり流れを眺めて佇(たたず)む。川岸の水際に柳が立っていて、さっと風が吹いて来ると頭を振って赤茶けた葉を川面に落とす。川面は落葉をのせてあわただしく流れていく。
左手に赤い実が五ツ六ツ裸の枝に附いている柿の木が見え、その後ろの山麓には黝(あおぐろ)んだ藁葺(わらぶき)や白い壁の人家が夕陽を受けて憩(いこ)っている。
降りた駅でいわれたように、彼と妻は川添いの路から分れて石垣の見える白壁の家へ小径を入っていく。長野と愛知の県境だ。
「Kさんの家はここですか」と表札のない家のなかへ彼が声をかけると、
「いまがいままでお待ちしていましたけどノオシ、ちょこっと山へ行って来るといって、そこの――見えませんかノオシ」Kさんの母親らしい頭髪の白い老婆が裏山を見ていう。
急な勾配の裏山は、二、三十年の杉、檜(ひのき)が鬱蒼(うっそう)と茂っている、周りを松の老樹や雑木林が囲っている。
「降りて来(こ)ンかノオシ、すぐ帰えるからといって出かけたが――」老婆は裏山に顔を向けたまま、マタタキもしない。そのうちに深淵に重く沈んでいく調子で老婆は続ける。
「――アレもノオシ、可哀想に右腕を失って戦地から帰ってからというもの、ナアンですかコロッと人間が変ったみたいになってノオシ……行っていた大学もやめてしまってノオシ……無理もないけどノオシ……わたしはソコヒでこの通り眼は見えないし――どうなることやら」
道理で老婆の眼球は殆んど動かなかったし、話すときですら彼や妻の顔を見ようとはしなかった。
遺留品はすでに送ってくれたし、最後の模様は数度の手紙で既に充分尽されていたのだったが、是非一度Kさんに逢いたいと妻がいって出向いて来たのだった。
見えない眼で裏山を見上げながら話している老婆と竝(なら)んで彼と妻は、Kさんを待って樹立の間を眺めていた。下の杉と上と杉とは植えた年代が違うのか太さが違い、下の杉は大人の一抱(かか)えも二抱えもある大樹が立っている。
「おお!」と突然声がした。
見ると、落葉を大きく束に縛って背負った黒い顔が、谷間の青葉を透して来る光と影のなかを降りて来る。仕事着らしい黒い服の右袖が垂れて足を動かす度にヒラヒラ動く、彼は傍の妻を見てKだと知らせた。妻は微笑を浮べて頷(うなず)く。
「あ、降りて来たようだノウシ」と耳を傾けていた老婆は云って、干柿のつるしてある家の中へ還っていく。
近くまで降りて来たKさんは落葉の荷を背負ったまま立停ってこちらをじっと見入っている。光のなかのKさんの丸い顔は彼らが想像して来たよりもはるかに若く見えた。
「自分がKです!」とKさんは彼ら二人を見ると、顔に感動的な笑いを浮べながら降りて来る。降りて来るKさんを待ちながら、妻の傍の彼はKさんから貰った手紙を記憶の中でつなぎ合わせていた。