2014年8月30日
akira's view 入山映ブログ 福田改造内閣
第二次福田内閣が発足した。福田総理の組閣後の記者会見が典型的に示すように、穏当極まりない出来栄えである。無論政治はワイドショーでもなければドラマでもないから、刺激的であったり、耳目を衝動させるような呈のものである必要はない。しかし、先の小泉政権と比較すると(間に一つあったが、ご承知の事情で言及するに足りない。)なるほど政権は変わったのだ、と感じない訳にはゆかない。
何がそんなに違うか。端的に言うと無難さ、基本的枠組み維持以外のメッセージ性の欠如である。安心実現内閣と自ら銘打ったように、よく言えば実務的、悪く言えば理念の見えない政権だ。別に悪いことではない。総理自ら認めるように、少子高齢化の中での諸物価高騰、厚生行政への不信、脱炭素社会の構築といった課題に挑戦するためには、仕事師が必要だろう。しかしこれは一つ間違うと現状維持・旧価値観復帰に堕することになりかねない。その典型的な一例は野田聖子氏の登用である。郵政造反で佐藤ゆかり氏を「刺客」として送り込まれ、党籍を剥奪されたのは記憶に新しい。それが復党のみならず、佐藤氏は「お国替え」。その上今度の内閣入り。その事柄自体の功罪はともかく、このメッセージの内容は明らかだろう。
さらに、政策プライオリティの時系列的な順序(5.4「政策論争」)が明確ではない。与謝野氏の登用がいうところの増税派(与謝野氏ご本人はかなり明確に自己規定されている。)主導の舵取り、すなわち行政の無駄や節約はたかがしれているから、口に苦い薬を敢えて投薬しようとする意思の表明か、というとどうもそのようでもない。第一、ご本人もおっしゃっているように、後一年余でしかも選挙を控えた政権が消費税増税政策を打ち出せるようにも思われない。(もしかしてそんな大胆な政策が採られたら、筆者は不明を恥じることになろう。)
福田氏の対話路線、極端を避けて中庸に徹する(かのごとく見える)感覚には依然として期待を持ち、それが成果を上げることを望むに吝かではない。しかしそれが官僚主導の予算主義・単年度主義(何度も触れたが、最近では7.5「増税の前に」)を脱するものとなることを期待する根拠が余りにも乏しい。いわばそれに対抗すべき唯一の手段である官邸主導政治の終焉であるかのごとく見える、と言ってもよい。いたずらに既得権益擁護派を刺激し、挑発するのが得策ではないことは理解できるものの、それが真の意図であるならば、伝える方法は今回の組閣に際して存在したのではないかと思われてならない。もちろん、百を望み、公言して結果がゼロに終わるより、当初から五十一を内心に秘め実行する(所謂「体制内」改革の議論である。)方が稔りが大きいという見方もあろう。しかし、それならばそれを言外に述べる方法はいくらもあったように思う。
先のオバマのベルリン演説も、誰もが反対できないことを羅列した、という点で今回の福田演説と類似している。しかし最大の違いは、おそらく今回記者会見での福田氏のそれに比べて、十分以上長い演説をオバマは全く原稿を持たないで、あるいは原稿に目を落とさないで終えた点である。あれほど月並みな内容を、あれほどしばしば原稿に視線を落とすというのは、官僚に書いてもらった原稿でないにしても、単なる演説の巧拙の技術論だけではないように思う。わが国は言霊のにぎわう国であり、公の祝詞は「読む」ものであって、「諳んじる」ものではない、という意見もある。その意味ではわれわれは日本の文化伝統に極めて忠実な首相を持ったことになる。
2008年 08月 02日