2014年8月30日
人間と自然-15-3 荻野彰久・荻野鐵人
「あんな荷、腕もないのに苦しいのじゃないかしら――」妻は右手のないKさんに同情したように小声でいう。
「苦しくはないさ、笑いながら降りて来るのだもの」
事実彼は、田舎人がよくするようにKさんは毛唐の妻に出会って無理な愛想笑いをしていると思った。が、近くで見るKさんの顔は笑っているのではなく、何か思いつめたように強ばった表情だった。唇をピクピク動かしている。
Kさんは背負った枯葉の荷を、そこの麦畑の隅におろすと、手紙や遺留品の礼をいう暇も彼や妻にあたえず、いきなり、
「おッ母さん!!」と妻の手を握って泣く……。恰(あたか)も健一の処刑された痛ましい光景をいましがたすぐそこで見て来たように――。そして自分が特赦(とくしゃ)で帰って来たことをわびるかのように。
妻は眼をしばたたかせながらただ頷(うなず)いていた。
Kさんは妻から手を離すと、くるっと背を見せ、生きている左腕で顔を隠すとまた泣く。
このときは妻も急に泣き出した……。
二人の間には何の言葉も何の説明も要らなかった。喪(うしな)った者同志だけに通じ合う電流のように、妻はKさんの背中に片手をのせて哭(な)く……。ここには最早日本人もなくイギリス人もなかった。そこには感じ合う「人間」がいるだけであった。彼らは人間を不幸にしているものそれが本能であれ自然であれ、はたまた神であれ、高みのものを烈しく感じ合うだけらしかった。二人はいつまでも哭いている。
GOD(ガッド)、神(ガッド)と妻のいう「神」のことを彼はひとり想いながら立っていた。神と人間のことを彼は秘かに考えている――人間を創(つく)ったのは神じゃない。自然が進化によって人間を創ったさ。そしてその人間が、苦しまぎれに神を創ったさ!
哭いている二人の傍に彼は近づいていく。
「そうですか、じゃ」と彼はKさんに礼を云い、帰ろうと妻に腕をかしていた。
赤い眼に泣きはらしたKさんは、深い声で、
「いよいよ刑が決ると毎日のように云っていました――何故、人間は男と女が結びつくのだろう? と」
妻がその言葉の内容に気づかぬようにと願いながら足もとを眺めていた。
砂漠に落ちた水のように、ゆっくり云うKさんの言葉をコクッコクッと呑み込んでいた妻は、もっともっと言って貰いたいらしかった。Kさんの眼と唇ばかり見詰めている。
「戦犯を埋めた問天墓地には数字だけで、人間の名前は建ててくれないのです」Kさんは口を歪めて云う。
「でも、送って下さった種から、日照草が墓の上で美しく咲いて――」
声が切れたと思うとKさんはこみあげてくるものをくい止めようと手の平で口を押え、
「――お母さんに一目逢いたいと、それを言って……………」
いつまで経っても日本語があまり上手でない妻も、このときのKさんの言葉だけはみな理解出来たらしかった。一寸彼の顔を見上げると、胸に顔を押しつけて来て、むせび泣く……………。