2014年8月31日
人間と自然-15-4 荻野彰久・荻野鐵人
……オスメスが創(つく)りなす悲劇のうえには、(斯(か)くして全宇宙の上にも)何かしら強力な「意志」が働いて、総てはそれによって動かされ支配されている気も彼にはするのだった。
人もし、それを「神」と呼ぶならば、それでもいいと不図そんな気にもなるのだった。
妻の顔色がだんだん蒼(あお)ざめて来たと思うと、にわかに重い疲れが凭(もた)れかかって来たように妻はバッタリ仆(たお)れた。
「もう済んだことじゃないか!」
一寸した眩暈(めまい)らしかった。
妻を抱き起して駅へ戻っていったことも、太陽は既に西の稜線に傾いていて、師走の日暮の街はあわただしい人の往来で賑っていたことも、黙々と白いハンカチで眼をおさえながらいく妻の手をとって一緒に歩いて来たことも、老人は忘却してはいない……。
が老人は、妻は自分に殺され、だからいまそこに横たわっているのは死骸(なきがら)であることをはや忘れている。
老人は、妻が殺されるとき足で蹴り、いまは足から離れている湯タンポを(火傷をせぬように)距離を測りながら近づけ、毛布を引いて静かに着せてやる。眼をつむってしばらくじっとしているのかと思うと、生きている人にでもいうように突然、大きい声で、
「ええ? 何?」と妻の方へ顔を向けていう。
死人から応答が聞える筈はない、が老人は焦立しげに、つぶやくー「お前のいうことは、僕にはちっとも解らない!」といって老人は口をつぐんでしまった。
が老人は、妻はやはり何かさかんに愬(うった)えているような気がしてならない。
「え?――何?」と老人はひとりいって、
「え?――わたしを殺してしまえば、あなたおひとり、お淋しいでしょうに――と言うのかえ? ええ? そんなことか? え?」
叫びのような老人の声がぷっつり切れると、深い沈黙が又冷たく病室いっぱいに降りて来る。
この激しい沈黙が何故かこの老人にはねじ曲げることの出来ない強い主張のように響く……。老人はいった。
「ええ? 何? もう少し生きていたいって?――だめだよ、そんな!」
瞬間、老人の顔には反省の色が浮んだ。いまから死んでいく妻に残酷なことをいってしまったと思ったのであろう。眼の前にもあるのにポケットからタバコを出して、マッチを擦った。
深く胸いっぱいに煙を吸い込むと、プウと空(くう)に吐く。吐いた煙を老人はぼんやり眺めている。煙は灰色の高い天井に溶けていく……。
そのうちに老人はタバコを灰皿の底に押し消すと、妻の足を握った。ゆっくりした手つきで毛布の下の妻の足をサスリはじめた。老人の動かす手の速度が緩慢になると、いつしか老人の眼はまたひとりでに閉じられる。眼を瞑(つぶ)ったまま老人は、例の想い出の階段をひとりゆっくり登っていく――「あなたより先にわたしが死んで、あの世へ行ったら、わたしはどこであなたをお待ちすればいいのですの?」
ずっと以前の春の夜、みずみずしい肌の妻が、これも笑い話に、布団のなかで彼の手を握りながらいった。
〈死後の世界を、妻は本気で考えていたのだろうか?〉老人は眼を閉じたまま冷えた妻の足を自分の手で温めようと包みながら考えるのだった。
妻が行くのであろう『死後の世界』を見ようと老人は閉じた瞼の裏側をじっと見る。恐らく彼自身の血液の色であろう。淡い紫の色がチラチラ動く。――「死後の世界」らしいものは浮んで来なかった。
次に老人は、自分の脳(のう)裡(り)の深層の底にそういう「死後の世界」を創ってみようと両方の眼を更に固く閉じて見る。――刈り入れの済んだ晩秋の、果てしなく続く黒々とした湿った地面に、稲の切株らしいものがところどころ見える、荒涼たる原野が、夢路でのように映って来る。軟かい月光に霞んで――「死後の世界」とはこんなものなのだろうか?老人は苦笑するのだった。〈それとも〉と老人の貧しい空想は続く――〈人間の棲(す)まない廃墟のような静寂と孤独に満ちた不毛の荒野――こんなものなのだろうか?〉老人は微笑する。オーバーの襟を合わせ、平踵の靴を穿き、肌寒い風に吹かれながら、自分を待ちわびるであろう妻の姿がまざまざと映って来る……。
〈そうだ〉と老人は妻の手を握りながら想う――〈いま自分が妻と手を握り合って同時に死んで行くならば、あの怖ろしいほど淋しい不毛の地で、二人は又一緒におられるかも知れぬ、だが今ここで妻だけを殺し、自分が生き残るならば、妻は妻、自分は自分と、二人は異なった世界を離ればなれに永遠に孤独に彷徨(さまよ)い続けるかも知れない……〉
老人の空想は何故かこんな想念に出逢うのであった。