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2014年9月1日

人間と自然-15-5 荻野彰久・荻野鐵人

〈いやぁ〉と老人はひとり微笑する。自然科学の長屋に寓居(ぐうきょ)して来た彼は所謂「神」をも信じないと同様、妻のいうそういう死後の世界――天国は信じられない。老人は微笑するのだった。
〈たとえこの世が悲しみに満ち苦しみに溢れていようとも、妻は矢張り生きていたいというのではなかろうか?〉妻の首を押えつけようとした老人は、自分の手を眺め、一瞬ためらいながら人間の運命や死の意義について考えるのだった。――〈人間が死ぬということは……〉と老人は考える。〈生活範囲が広いか狭いかの相異はあっても、そして寿命が長いか短いかの相異はあっても、人間は、死という刑罰を背負わされて生れて来たのではなかろうか?〉
突然老人は起ち上った。妻の首に彼は手を当てる。死(し)骸(がい)の冷たさはこのときの老人には感ぜられない。腕に力を流し込んだ。自分に殺される妻の残(ざん)虐(ぎゃく)な死に顔は流石(さすが)の老人にも堪えられない。
見まい! と老入は顔を外向けながら力を手に注ぎ込んだ。妻が死んだ後の自分の姿が、哀れにも思い浮ぶ。(このときの感情を老人は、彼の手記「人間と自然」のなかで、哀愁といわず感傷と書いていたが)それでも老人は妻を殺さなければならぬ自分を思った。――「人間のために」――「理性的反抗」のために……固く閉じた老人の眼から一滴、泪(なみだ)がポタリと落ちた……。
「鳴呼(ああ)――」と一度溜息(ためいき)を吐き、ぐっと首を押えながら老人は思わず叫んだ。「死んで呉れ!!」
老人の声は、大き過ぎた。
蹴るように扉を開けて受持医谷野と看護婦青木が這入って来た。
が、看護婦だけは又すぐに出て行く。
「タタタタ大変なの!殺したの!奥さまを!十五号の!老人が!」青木は一階の看護婦詰所の同僚たちに小さい声で「放送」してしまった。
看護婦の後を追って谷野が直ぐ飛び出して行った。「殺人」にせずに「病死」にしたかった。走って行ったが、もう遅かった。
「マア!」
「マア!」
と口を尖らして集って来た看護婦たちや附添婦たちの後ろに、背の高い警官が二人立っていた。麻薬盗難事件で昨夜から来ていたそうだ。
出来ることなら警察沙汰にはしたくなかったが――と頂(うな)垂(だ)れた姿で谷野が、医局へ這入っていったとき、矢内原教授から電話がかかっていた。
「いま医長から電話を聞いて愕(おどろ)いているところだが、いったいどうしたのだ。兎に角、直ぐ参ります」
十五分毎に行ってやるべき注射を一度居眠りして忘れ、僅か三十分そこそこの間に起ったこの殺人事件を、自分の責任だとばかりは思わなかったけれども、この老人には元大学教授であるということ以上に何故か谷野は心ひかれるものを感じるのだった。
床が変るたびに老人は暗い夜を不眠に悩む
「絞首刑は俺じゃない! 絞首刑は俺じゃない!」
どうかすると老人は健一のこんな幻影に追いまわされることがある。そんなときは老人は崩壊に屈しようとする自分を堪えて昂然(こうぜん)と起ち上る。そして後ろに手を組みながら三方壁の狭い、独房のなかをゆっくり歩き廻る。

忘れていた訳ではなかったけれども、独房が変るというので、三日ばかり忙しくて行けなかった谷野が行った日は曇っていた。老人を載せた護送車が門を出るところだった。
額に雨の滴を受けながら、老人を見送っている谷野は、動こうともしない。



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