2014年9月2日
高遠そば-1-1 荻野鐵人
1.高遠そば
中学校の修学旅行で会津若松市を訪れて、おそば屋さんに入り、何か旅行の思い出になるものを食べたいものだと物色し、品書きにあった「高遠そば」を頼んでみた。
「お爺さん、このこうえんそばってどんなの?」
「まあ、ざるそばだな。そばつゆに大根おろしを入れて食べるざるそばってとこかな。たかとうそばっていうんだけどな」
「鶴ケ城の高遠(たかとう)桜は見たんだろ?」
「へえ、あの桜はとってもきれいだったけど、そんな名前がついていたの」
「高遠城は知らないよなあ」
首を振る私達を見ながら、
「高遠城は長野県上伊那郡高遠町にあって、月蔵山の麓の断崖上に、三峰川、藤沢川を前面の要害として山本勘介が築いたものなんだ。山本勘介は知っているかな?」
「そりゃ知っているよ。武田信玄の軍師でしょ。勘介がその城を造ったの?」
「そうなんだ。この城は武将が兜を被ったように見えるため、別名兜山城とも呼ばれている。勘介はのちに勘介桜と名付けられた桜の木の下に通い、そこから見下ろして高遠城の縄張り(設計)の構想を練ったといわれている。規模は壮大で、現在も築城当時をしのぶことができる。城は本丸を中心として背後に二の丸、三の丸をおき、本丸は笹郭と南郭が守り、さらに左右に勘介郭と法憧院郭を配している。勘介郭は郭のうちでは最も広く勘介は兵の訓練のためこの郭を設けたものと思われる。また、郭外の搦手(からめて)には武士たちの居住区を設け城下町は城の西方に造ってあった」
「ちょっと待ってよ。ここに高遠城があるわけでなし、どうして高遠桜があったり、高遠そばなんて言ったりするのよ?」
「さあ、そこじゃ」お爺さんはうれしそうな顔で、私たちを見つめながら、
「どうかね、今日はサービスしちゃって、一杯分の値段で大盛を出すから、わしの高遠城の話を聞いてかないかね」丁度おなかもすいていたし安い話に反対のあろうはずもない。ほどなく、そばが出来てきた。手打ち特有の腰の強い喉(のど)越(ご)しの良いそばと、大根のたれの辛さがマッチしてなかなかうまい。
「お爺さん、これうまいや」
「そうかそうか。食べながらでいいから、約束どおり、わしの話を聞いておくれよ」
「武田が滅んだあと家康は盟友信長から『武名ある者は、諸将召(めし)抱(かか)うべからず』と反対されていたにも拘らず、臣従を誓った甲州武田家遺臣895名を召抱えた。天下に赤い稲妻の異名を轟かせ恐れられた甲軍の騎馬軍団の軍法は徳川の代になっても継承された。高遠という言葉が当地会津にあるのは、藩祖保(ほ)科(しな)正(まさ)之(ゆき)が信州高遠以来の家来を会津に連れて来たからである。武田武士の血が会津藩風を作り連綿として受け継がれて来たからこそ、高遠そばがある訳なのだ」
お爺さんの話は、その後延々と続いた。