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2014年9月3日

高遠そば-1-2 荻野鐵人

会津藩祖松平家第一世保(ほ)科(しな)正(まさ)之(ゆき)は幼名幸松といって、慶長16年(1611)2代将軍徳川秀忠の庶子として生まれた。秀忠の正室は小督(おごう)と言い父は浅井長政、母は信長の妹のお市の方で大阪城の姉淀(よど)君(ぎみ)と同様に母の血を引いて絶世の美女だが勝ち気な女であった。小督は秀吉の世話で始めに尾張知多郡の小大名佐治与九郎に縁づいた。秀吉・織田信(のぶ)雄(かつ)、家康との間に小牧の合戦が起こった時、秀吉は佐治が家康側に好意を見せたのを怒って小督を取り戻し羽柴秀勝に再縁させた。秀勝は信長の4男であり信長の生前、秀吉が貰って養子にしていた男である。間もなく、秀勝が若くして病死し小督が寡婦となったので、秀吉は家康の嫡子秀忠に縁づけた。当時の秀吉にとって家康は最も恐ろしい男である。その家康の後継に自分の最も愛している淀君の妹を縁づけることによって、家康の心を得ようと思ったのであろう。大変生真面目で恐妻家でもあった秀忠は1人の側室も置かず、小督一人を愛して二男一女をもうけた。その秀忠がある時たまたま湯殿に背中を流しにきた女に手をつけてしまい、妊娠したと聞き仰天した。その処置に困っていると折から江戸城に登城しており、父家康からも、あの武田衆だから気骨が他の者とは違う何かの折りには頼りにせよと言われていたのを思い出し、いかにも口が固そうで、朴訥な信州高遠3万石の領主保科肥後守正光にその女を任せてみることにした。当時武田信玄の第六女の信松院(しんしょういん)が八王子の草庵(今日の武田山信松院)に住んでいた。信松院は織田信忠と婚約したが、信忠が本能寺の変で死ぬと未婚でありながら未亡人として髪をおろしていた。信松院は正光にとっても祖父の主家の娘であり神々しい美しさは評判でもあって一度会ってみたいものだと思っていたので、草庵へその女を連れて行き事情を話した。さすがの正光も信玄公の面影を写した信松院の清らかな美しさの前にはただ平伏するのみで湯殿の件は言えなかった。やがてその女が月満ちて、眉毛の濃い男の子(幸松)を生んだと聞き、正光はこれを秀忠に告げたが秀忠は妻に知られることを恐れて認知しようとはせず正光に他言を禁じた。こんな時には、後日のために主家の老臣に事情を話して承認を得ておくことが習わしになっているので、正光は信松院を通じて家康の隠し子とも噂される、時の老中土井(どい)利(とし)勝(かつ)の承認を得た。秀忠は一度も結婚したこともましてや子供を生んだこともない信松院の子にすることも出来ないので、利(とし)勝(かつ)に密(ひそ)かに信松院の姉、信玄の見性院(けんしょういん)の子として養育を依頼するよう命じた。



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