2014年9月4日
高遠そば-1-3 荻野鐵人
見性院は信玄の姉の子穴山(あなやま)梅(ばい)雪(せつ)といとこ同士の結婚をしていた。信玄の没後天正3年、勝頼(かつより)が長篠(ながしの)の戦いで信長・家康の連合軍に大敗し同10年3月天目山(てんもくさん)で切腹すると、予てから家康や信長に黄金を贈り自身の助命嘆願と武田再興の裏工作をしていた穴山梅雪は、同年6月家康に従って信長に旧領安堵の御礼に安土へ伺候し安土城で歓待を受けた。その帰途、堺見物の途中で本能寺の変を知り急ぎ帰国することになった。ところが、あいにく梅雪は痔のため馬に乗れず、家康を見送って自分は徒歩で少数の家臣を連れ宇治田原郷を目指し甘(かん)南(な)備(べ)山から田辺の原野にさしかかった時、野盗の襲撃を受け殺害されてしまった。これより少し前の天正10年3月、ときの高遠城主信玄の五男仁(に)科(しな)五郎盛(もり)信(のぶ)(副将保科正直)と兵千五百は、甲州最後の防衛線である高遠城に篭城し包囲した織田信(のぶ)忠(ただ)と兵五千に対して必死の戦いをいどんだ。勘介の造った城でもありさすがの織田勢も攻めあぐんだが、大軍を投入しての波状攻撃と物量戦の前には多勢に無勢、盛信は自刃した。保科正直は落城間近と知るや一度は城を逃れたものの、半年後には手兵五百をもって織田信忠軍を掃討、高遠城を奪い返した剛勇の士だった。保科家は正直(まさなお)の父正俊(まさとし)の代に信玄に仕え、武田氏が滅亡すると正直は徳川家に仕えて本領を安堵された。やがて、その子正光(まさみつ)が藩主となった。見性院の子の勝千代は穴山梅雪の横死後、信治と改め武田家を継いだが天正15年16歳で病死した。重なる不幸を悲しむ見性院が髪をおろして仏門に入りひたすら夫と勝千代の冥福を祈る姿を見た家康は憐れに思い、江戸城の田安(たやす)門比丘尼(びくに)屋敷に知行六百石の隠居料を与えて、手厚く保護していた。
土井利勝は秀忠の内命を受け田安家に赴(おもむ)き見性院に会い、『将軍家から幸松様をそこ許(もと)の子として遣わされるという内命があったのでよく介抱せよ』と申し渡した。見性院はしばらく考えて、『将軍家よりこの尼にかく御依頼ある上は、正に御受け仕(つかまつ)る。わらわも弓矢執(と)って世に知られたる信玄の娘であるからして一旦御引受した以上は御心配なく』と答えたと言う。
幸松を手元に引き取った見性院は、家来全員を集めて『幸松様によく御奉公するように』と通達し翌日には、その姓もズバリ『武田』と定めた。その名乗りの儀式は甲州の『甲』と『松平』の『松』にちなみ、『甲松の儀』と呼ばれたという。以後5月の節句のたびに、見性院は上に徳川家(元松平家)の家紋である葵(あおい)と下に武田家の家紋武田(たけだ)菱(びし)を染め出した幟(のぼり)を立てて幸松の健やかなる成長を祈った。見性院は信玄の遺品『紫銅鮒形(ふながた)の水差(みずさし)』をも幸松に与えたほどだから、この聡明な少年を武田家と徳川家の架橋(かけはし)とすることにより、武田家の再興を念じたのであろう。