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2014年9月5日

高遠そば-1-4 荻野鐵人

幸松は将軍秀忠の胤(たね)でありながら、武田家の家風、気骨を教え込まれつつ育つという異例の少年時代を送った。
見性院は、元名(げんな)3年(1617)幸松が7歳になるまでわが子同様に育てた。やがて、秀忠は、妻が死にだれ憚(はばか)ることもなくなったはずだが幸松には何の沙汰もない。不憫に思った見性院は、幸松の今後の養育を保科正光にゆだねることにした。元名8年、凛々しく育った12歳の幸松の名を呼び続け武田再興の幻影を追いながら見性院は波乱の生涯を閉じた。保科正光はこれを哀れに思いこれまでのいきさつもあって幸松を正光の養子として育てることにした。
寛永4年(1631)正光のあとを継いで幸松(あらため正之(まさゆき))が21歳で信州高遠城主となった。ところが、22歳で『性剛性にして和淳なり。学を好む』と育ち立派な青年となった正之(幸松)とは父子の名乗りをしないまま秀忠は寛永9年(1636)没した。
秀忠の長男で、3代将軍家光は、鷹狩りを好んだが、目黒のあたりに行った時のどが渇いて、目についた寺に入って茶を所望した。ほんの3人だけ従えている家光を将軍であるとは露(つゆ)知(し)らず、家光に茶を供した後、老僧はこう言った。『当寺は檀家が貧しゅうござるので、寺も貧しゅうござる。当寺の檀家は保科殿と申してわずかに3万石の身代であるが、今の保科殿は現将軍家のただ一人の弟君でござるによって、本来ならば何十万石の身代であるべきである。下々と違って、上の方は人情も薄いのでござろうか。ご兄弟というに御身代が違いすぎますな。それ故に、当寺もこの有様・・・』
家光としてははじめて聞くことである。家光はこの数年前に弟忠長の我儘を怒って殺しているので老僧の言葉はひとしお胸にこたえた。ものも言わず立ち上がって城に帰り取り調べさせて正之のことを知り、呼び出して兄弟としての対面をした。
寛永20年(1647)兄家光の命により正之は会津23万石(幕末には28万石)へ転封(てんぽう)を命じられ、会津松平藩の第一世となった。会津に行っても保科正之には高遠以来の武田家遺臣たちが仕え続けて会津松平藩に武田の気骨を伝え、剛直かつ秋霜(しゅうそう)烈日(れつじつ)の藩風を築きあげたのだった。
保科正之の美質はこの大藩に封じられて見事に開花した。兵力強化に専念し御三家に継ぐ家柄として奥州に睨みを利かせ、殖産興業、備蓄節倹を奨励し諸藩にさきがけて殉死を禁じるなど、正之は後世の松平定信が理想の人物とし、徳川幕府初期の5本の指に数えられ、今でも高校の教科書にのるほどの名君となった。会津藩には『高遠以来』という言葉があった。正之の高遠藩主時代から仕え続けた最古参の家柄のことで、武田家の遺臣たちである。うち井深、簗瀬、田中、西郷、内原、梶原、北原、小原、三宅の9家は家老職に登り得る名門とされていた。『知恵山川、鬼佐川』と言われた山川浩(ひろし)と佐川官(かん)兵衛(べえ)も高遠以来の者たちであった。会津藩のルーツは高遠にあり、その藩風は幕末から明治へと遺(のこ)されたのである。



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