2014年9月9日
高遠そば-2-2 荻野鐵人
頼母は江戸屋敷の留守居役や江戸家老の努力の不足が腹立たしかった。彼らの役目は、幕閣はもとより有力な大名らと常に交遊を保ち、情報を得るとともに政治工作をしなければならない。頼母には彼らがそれを怠っていたとしか思えなかった。
『この天下の大勢を慮(おもんばか)るに、京都守護職などそれこそ火中に栗を拾うに等しきことじゃ、いかなることがあろうとも殿をお止めしなければならぬ。一歩誤れば当家は潰滅する』
急ぎ会津藩江戸屋敷に出立してきた頼母は、江戸家老達を前にして一歩も引こうとはしなかった。西郷家は本姓保科で高遠の藩祖の家から出ており、分流ではあるが広義には藩侯の一族といえる家柄だが、主家を憚(はばか)って三河の祖先の西郷を名乗っていた。それだけに彼の歯に衣を着せぬ主張には他の家老も一目置かなければならなかったし、藩主容保でさえ養子の身でもあり、無意識にしても頼母に遠慮があった。
『頼母、余の決心に不服と思うか。これは将軍のご命令なのだ。断れるはずもない、命をかけて取り組むしかないのだ』
『殿のお気持ちは分かりますが、拙者はもとより、国許はこぞって反対でござる』
もとより頼母は切腹を覚悟していた。ここは喩(たと)え命を張ってでも容保に京都守護職を辞退してもらわねば会津藩の命運にもかかわると信じていた。
西郷頼母は容保の怒りを買い叱咤を浴び目通りかなわぬことになった。頼母は、秋月悌次郎、広沢富次郎、柴太一郎を呼び『お前たちの頭脳に会津藩がかかっている。俺に代わって命がけで藩のために尽くしてくれ』と言葉を残し江戸を去った。そしてこの後、五稜郭で、榎本武揚、土方歳三らと共に幕府のために戦うことになる。
松平容保(28歳)は、藩祖保科正之の会津藩家訓(かきん)の第一条に従って京都守護職を引き受けた。藩祖正之の遺訓が会津藩のすべてを律していた。その第一条とは『大君の義一心大切に忠勤を存す可し、列国の例を以って自ら処すべからず、若し二心を懐かば則ち我子孫にあらず、面々決して従うべからず』で、会津藩主が最も心がけるべきは徳川家への忠勤であり、それも諸藩と同じ程度の忠勤でよいと思っていてはならない。もし徳川家に逆心を抱くような者があれば、それは自分の子孫ではないから、家臣たちもそのような者に、従ってはならないという意味である。列国とは他の大名のことを言い、他の大名らが幕命を受けるか受けないか、選択するのとは違うのだ。そこに会津藩の苦衷があった。