2014年9月10日
高遠そば-2-3 荻野鐵人
公用局の秋月悌(てい)次郎(じろう)と広沢富次郎は、任務の重大さを胸にきざんで京に向かった。二人は後に著名な人物になっている。明治になってから秋月が熊本の第五高等学校で漢字、倫理の教授をつとめた際、『秋月先生は、神の如き暖炉の様な人』とラフカディオ・ハーンが書き残している。広沢富次郎は下北半島の開拓者として知られ、青森県三沢にわが国初の洋式牧場を作った。
秋月と広沢らが京に発って数日を経て公用局柴太一郎も上京した。柴太一郎の父、柴佐多蔵は高遠以来の280石の上級武士であった。太一郎の兄弟姉妹は多く、謙介、五三郎、四朗、かよ、つま、志ゅん、そい、いよ、五郎、さつ、と大家族だった。兄弟そろって頭がよく太一郎も藩校日(にっ)新館(しんかん)時代から将来を嘱望されていた。後になってのことだが、謙介は会津戦争で死に、四朗は発熱で倒れたため白虎隊員にもかかわらず生き残り政治小説『佳人(かじん)の奇遇』を書き、五郎は後に陸軍大将になっている。姉妹は祖母、母とともに会津で自刃している。
使命に燃えて京都に来た太一郎はこのとき24歳である。外交官たる公用局の人間は江戸在勤経験者と決まっており、太一郎も謙介、五三郎、四朗と共に、京都守護職詰めとなった。頼母は、太一郎の江戸で培った行動力、判断力、積極さを買い、広沢富次郎の下につけ朝廷内部の情報収集に当たらせた。
当時、上方では、会津を知るものは少なく、『カイツ』とはどこの国だと問うものもいる始末だし、公(く)卿(げ)たちもまったく知識がなく会津は奥州の野蛮な国で殺伐を好むなどと語り伝えられてもいた。
松平肥後守容保は藩兵1千名を率いて京都に入った。京都町奉行永井尚(なお)志(むね)の布告によって、多数の市民が出迎えた。永井尚志は容保とともに京都に赴任した幕府官僚であり、老中阿部正弘によって見出され、長崎海軍伝習所所長、軍艦奉行、勘定奉行、外国奉行などを務めた大物である。
太一郎は京都の会津藩本陣として金(こん)戒(かい)光明寺(こうみょうじ)を選んでいた。ここは徳川家の菩提寺であり、皮肉なことには二代将軍秀忠の正室の墓があった。秀忠は会津藩祖保科正之の父であり、前述の如く秀忠の浮気で保科正之が生まれたのだった。
太一郎にとって、京都の街は想像を越える廃墟であった。