2014年9月11日
akira's view 入山映ブログ オリンピック
オリンピックも後一週間を切ってまさにたけなわである。プロ野球は言うに及ばず、甲子園球児までが少しかすんでしまったように見えるのはひが目だろうか。現地に出かけてゆくほどの熱意もない筆者としては、もっぱらテレビ観戦を決め込むことになるが、アテネの時とは違い、時差に悩むことがないのはありがたい。とはいえ、アメリカテレビ局の要望とやらで、お目当ての競技の放映が妙な時間になったりするのは少し困りものではあるが。
ひねくれた感想から始めようと言う訳ではないが、テレビのアナウンサーと解説者はどうして意味もない無駄口ばかりたたいているのだろう。お定まりの絶叫調は先に触れた(1.3「騒音禍」)ごとし。ことは民放だけではないのもよく解った。それ以外にも、「ここでホームランが出れば同点ですね」(知ってるよ)メダルを取った選手に「どんな気持ちですか」(!)「ここではなんとしてももう一点欲しいですね」(いらない点なんてある?)まともな解説をしている人は本当に数えるほどだといってよい。民放の広告収入源がお手軽なバラエティ番組偏重になっている影響はここにも出ているのかなあ。
中国との文化、というか感覚の違い、というのもこういう具体例で眼の当たりにすると、これははっきり認識させられる。良いとか悪いとかの話ではなくて、開会式のテレビ画面の花火がCGだったのはともかく、美人の歌手が、実は他人の声に口をパクパクさせていただけだというのも「ううん。日本では先ず考えられないね」ということになる。今は亡きパバロッティも、テープに合わせてパクパクをやったことはあるが、少なくともあれは本人の声だったよね。同文同種とか、一衣帯水なんていう決まり文句に無条件に安住していると妙なことになるのかも。
スピード社水着の威力にも改めて驚いた。スポーツに近代科学を導入するなんぞ、日本が最も得意そうなのだが、そうでもないんだな、と思う。山地のハードトレーニングで出場できなくなったみずきさんのニュースを聞くと、学生時代夏練の最中に、水を飲むな、根性が足りない、なんてどなられていた昔の思い出がだぶったりもする。水泳選手のコーチ陣にスポーツ医学専門家が加わっていたと聞く位だから、まさかそんな野蛮な話ではないだろうが。精神主義と非科学性は紙一重なのかもしれない。
身びいきでやわらちゃんの悲しげな顔を見ていると、かつての姿三四郎時代(旧いな)の柔道とはイメージが変わってしまったのだとつくづく思う。国際化というのはこういうことなのだろうとも。組み手争いが、一本取った取られたと同じように競技の本質に近い部分になる、というのもあり得ることだろう。体操のような採点競技と、トラックに代表される結果が誰の眼にも明白なのとが違うように、約束事が素人に解り易いのと、解りにくいのと、ことはスポーツだけではない。そこに(身びいきを含めた)感情の要素が入り易いというのも一つの落とし穴かもしれない。
オリンピック前に中国経済はおかしくなるぞ、なんて賭けをしてあっさり負けたこともあって。少し斜に構えてオリンピックを見ているのかもしれない。反省。
2008年 08月 20日