2014年9月11日
高遠そば-2-4 荻野鐵人
長州藩は元来、長井雅楽(うた)の『航海(こうかい)遠(えん)略(りゃく)策(さく)』を藩(はん)是(ぜ)とし、開国、公武合体論を主張していた。海軍を整備し世界に乗り出すという積極策である。ところが急進派は『これは幕府を助けるに過ぎない』と考え一転して攘夷に走り、京都の朝廷勢力と手を結び混乱を起こすことこそが倒幕につながる、と主張していた。
一方、薩摩は生麦でイギリス商人リチャードソンを斬り殺し攘夷の先頭に立ち、文久2年夏頃から公然とテロをおこなった。人斬り新兵衛(しんべえ)こと田中新兵衛は、前関白九条尚忠の執事で安政の大獄(たいごく)の際活躍した島田左近を暗殺し、青竹に刺した生首を鴨(かも)川筋(がわすじ)の先斗(ぽんと)町(ちょう)に晒(さら)した。次いで島田の同僚宇野重固も殺した。これは明らかに九条尚(ひさ)忠(ただ)への脅迫であった。続いて土佐の岡田以(い)蔵(ぞう)が目明かし文吉を斬ると刀の汚れだからと絞殺し丸裸にして三条河原の杭に縛りつけた。土佐の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛、肥後の河上彦(げん)斎(さい)の三人が殺し屋三羽(さんば)鴉(からす)といわれたのは、この頃である。
松平肥後守容保の命令で会津藩巡察隊が隊列を組んで市内を歩き警戒に当たると、それだけで、荒廃しすさんだ京の街が明るくなった。テロを怖れ、夜になると早々と店仕舞いをしていた商店も夜店を再開した。『會』の旗が京の街にひるがえり、毅然たる会津藩巡察隊に拍手がわいた。『会津肥後さま 京都守護職つとめます 内裏(だいり)繁盛で 公卿安堵(あんど) トコ世の中ようがんしょ』と子供たちにも歌われた。
正月気分がまだ抜けきらぬ文久3年の1月22日、会津藩が京に敷いた治安組織によるほんの束の間の平穏の後、再び土佐の儒者池内(いけうち)大学(だいがく)、さらに5日と経たぬうちに幕府派公卿千種(ちぐさ)有(あり)文(ふみ)の家令賀(か)川(がわ)肇(はじめ)が暗殺された。池内大学は反幕派の学者だったが、安政の大獄で逮捕されると幕府から賄賂を受け同志の消息を白状し変節したと噂(うわさ)されていた。晒(さら)し首にされ、その耳は脅迫状とともに正親(おおぎ)町(まち)三条実(さね)愛(なる)の屋敷に投げ込まれた。両卿はふるえあがり辞職した。この脅迫が思った以上の効果をあげたのに調子づいたテロリストは、賀川肇の首は一橋慶喜、腕は千種と岩倉の屋敷に届けた。ただのテロ行為ではなく一人を殺すことで数人を脅かす、そのやり方はあくどくなってきた。