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2014年9月12日

高遠そば-2-5 荻野鐵人

こうした折、会津藩を脱藩して浪人し地下にもぐった大庭(おおば)恭(きょう)平(へい)から、公用局に重大な情報がもたらされた。長州の世子毛利(もうり)定広(さだひろ)が不逞浪士の集まりに出席したというのである。公用局は長州が藩をあげての行動に出て来たことと、吉田松陰門下の最も過激派の久坂(くさか)玄(げん)瑞(ずい)、井上聞(もん)多(た)(後に明治政府高官となった井上馨)の登場にも驚き、徹底的な長州研究を行い、藩主容保の御前で田中土佐・秋月・広沢らに報告した。「毛利氏はかって中国一円を領有する戦国大名であったが関ケ原の戦いで豊臣に味方したため萩に押し込められて以来、徳川家に対して250余年、怨念を持ち続けて来た。すでに数年前から、下関海峡には外国船が近付き、長州人は外(がい)夷(い)を肌で感じており、それがペリーの来航でその脅威は一段と高まった。上海から密貿易を通じての情報もあり『清国は列強の植民地と化し、国民は奴隷のように使われている。その轍(てつ)を踏むな』という危機意識が台頭した。その指導者となったのは村田(むらた)清風(せいふう)であった。村田は領民皆兵の思想で、婦人・子供・犬・猫にいたるまで動員して外夷に当たれ、と主張した。さらに我々会津人にとって理解しにくいのは長州の風土である。会津は深い連山に囲まれ、一年の半分は厳しい風雪に埋もれ閉ざされた社会であり、外から攻め込まれるなど夢想だにしない安住の地である。この結果、会津人は保守的になり変革を好まず古い習慣にとらわれ冒険を避ける傾向にある。これに反して西南の地は海を通じて世界につながっている。南蛮貿易、御朱印船、キリシタン大名、オランダ貿易と鎖国の時代でも長崎を通じて絶えず新しい風が吹き込んでいる。さらに私が指摘したいのは、大規模な農民一揆と上士対下士の抗争である。天保年間、長州に恐るべき一揆が起こった。一揆に加わった村々は百を越え13万人以上の農民が暴れ回った。農民の鉾先(ほこさき)は領内の特権商人、地主、村役人などに向けられ、要求の中には産物会所の廃止があった。産物会所というのは藩の物産取引所で藩内の産物はここを通して販売され、商品はすべて藩の独占販売である。農民たちはこれに反発し販売の自由を求めた。背後に新興商人の台頭もあり、下関の回船問屋、白石正一郎は代表的な例であった。白石は浪士たちを支援することで特権商人に脅しをかけた。こうした背景の上に、下級武士や農民は郷勇隊、農兵隊を組織して藩政の中核に踊り出た。下級武士は藩を越え結集し、『諸候恃(たの)むに足らず。公卿恃むに足らず。草葬(そうもう)志士糾合のほかには、これなきこと』と主張した。その典型的な人物として高杉晋作があげられる。長崎から江戸に侵入した高杉晋作は、攘夷の火の手をあげるには異人を斬って世間をアッといわせることだ』と叫び、井上聞多、久坂玄瑞、赤根武人(たけと)らと横浜でイギリス公使館襲撃の策を練ったが土佐の武市半(たけちはん)平(ぺい)太(た)の知るところとなり、長州藩世子毛利(もうり)定広(さだひろ)直々の説得で未遂に終わった。しかし高杉晋作は、今度は品川に建設中のイギリス公使館を炎上させた』以上、柴太一郎の調査は行き届いており、広沢は部下の手柄に目を細めた。



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