2014年9月16日
高遠そば-2-8 荻野鐵人
ところが、太一郎の期待、公武合体そして開国が膨らみはじめたこの時に、姉小路公知暗殺の悲報が京都守護職屋敷にもたらされた。現場には刀が残されており、薩摩屋敷出入りの刀屋を調べると持ち主は薩摩の人斬り田中新兵衛と判明した。薩摩屋敷で京都町奉行永井尚(なお)志(むね)に太刀を見せられ追及された新兵衛は、自ら刀を手に取って自分のものと確かめると無言のまま首筋を斬り事件は迷宮入りとなった。姉小路公知の死は公武合体、開国に水をさす手痛い事件だった。三条実美は『薩摩を御所の警備からはずす』と勅諚(ちょくじょう)読みあげ、決着がついた。
長州藩は、慶喜が決めた5月10日の擁夷決行の日に合わせて、馬関海峡を通過しようとするアメリカの汽船ベムブローク号、200トンを長州の軍艦庚申丸で攻撃した。しかし、12発のうち3発が船の近くに落ちたに過ぎなかった。急いで錨を上げたべムブローク号は全速力で逃走した。これを見た長州藩は攘夷の美酒に酔いしれた。5月22日、今度はフランスの軍艦キャンシャン号が砲撃を受けた。更に25日にはオランダ軍艦メデュサ号が船腹に大きな穴をあけられ4人の水兵が戦死した。
…長州攘夷実行の知らせは瞬く間に京都に知れわたり、孝明天皇と長州派の公卿たちは喜びに小踊りして次ぎの戦果を待った。
しかし長州藩の勝利もそれまでであった。メデュサ号に砲撃を浴びせたその日、アメリカ艦隊のコルベット艦ワイオミング号の攻撃を受けた長州艦隊は、2隻の軍艦を失い、死者100余名を出すという大敗を喫した。さらに3日後、長州藩は壊滅的な報復を受けた。フランス東洋艦隊の旗艦セミラミス号とコルベット艦タンクレード号が海峡の北岸に侵入し砲台は吹き飛ばし、陸戦隊を上陸させた。陸戦隊は砲台を破壊し火を放ち火薬、弾丸を海中に投じた。