2014年9月17日
高遠そば-2-9 荻野鐵人
6月下旬、鹿児島に着いたキューパ提督率いるイギリス艦隊のニール大佐は、生(なま)麦(むぎ)事件の賠償金2万5千ポンドと犯人の処罰を要求する文書を薩摩藩に手渡した。翌日大胆にも来艦した生麦事件の下手人である奈良原喜左衛門と伊地知正治は、『犯人は行方不明である。発見次第処罰する。賠償金は幕府も同席の場で談判の上に決めたい』と、うそぶいた。
薩摩藩の対応に怒ったキューバ提督は繋留していた薩摩の汽船3隻の拿捕を命じた。甘く見ていた薩摩の砲台から砲撃があり、イギリス艦隊の60余名が死傷した。キューパ提督は反撃を命じた。艦隊は北岸にそって航走しながら最新式のアームストロング砲を間断なく撃ち続けた。薩摩の砲台がつぎつぎと沈黙した。イギリス艦隊はさらに町を焼き払う焼夷弾(しょういだん)攻撃を始めた。たちまち大火災が発生し城下の1割、500戸が焼失した。
日ごろから殺戮を好む長州を嫌っていて、イギリス艦隊との戦いで攘夷の非も悟った一人の薩摩藩士高崎佐太郎が、会津藩の秋月悌次郎、広沢富次郎、柴太一郎を訪ねて来た。長州に対する薩摩の怨みと、朝廷をめぐる陰湿な権力闘争の上に、姉小路公知暗殺の汚名を着せられ、御所の警備から追われた悔しさもあった。高崎は姉小路暗殺は長州の陰謀だと信じていた。『近来勅諚として発せられているものは、大半が偽勅でごわす。三条実美、桂小五郎ら奸臣どもの仕業でごわす。帝(みかど)もこのことに気付き、しばしば、佐幕派の中川宮朝彦親王に嘆かれておると聞いとりもす。思うに、真に帝をお守りし外国に門を開き、新しい日本を造るのは、会津、薩摩をおいて他にござらぬ。願わくは、会津とともに、君側(くんそく)の奸(かん)を除きたき所存にごわす』