2014年9月18日
高遠そば-2-10 荻野鐵人
この時既に、公用局の秋月悌次郎、広沢富次郎、大野英馬、柴太一郎らが入手していた情報はまさに驚くべきもので、長州藩は8月27日を期して2千の兵を上洛させ、天皇が神武天皇陵と春日大社に行幸し攘夷祈願をしている間に、京都の市街に火を放ち混乱状態をつくりだし、帝を拉致し、諸大名を京都に集めて一気に関東に攻め入ると言う事だった。また、西南諸藩の浪士たちに大きな影響を与えている人物で、倒幕をもっとも早く理論づけた久留米水天宮の神官真木和泉が上洛するとの情報も入っていた。真木の倒幕論は、帝を奪ったほうが正義にあるという理論である。
柴太一郎ら公用局は、朝廷内部の穏健派、前関白の近衛忠熈(ただひろ)、右大臣二条斉(なり)敬(ゆき)のもとに、この情報と薩摩藩主島津久光の意向を伝え、会津・薩摩藩の同盟が成立した。太一郎の近衛公への説得により近衛公が参内して、8月17日夕孝明天皇からの『国事の害を除くべし』との政変決行密書が届いた。
京都の会津藩本陣の金(こん)戒(かい)光明寺(こうみょうじ)の境内は大砲隊、鉄砲隊、槍隊などのものものしい軍団であふれた。18日、会津、薩摩藩兵と京都所司代の淀藩兵合わせて2千余兵が御所に向かい、孝明天皇の『三条実美ら七卿即刻、退去すべし』との勅命が下り、過激派公卿は官位を剥奪され、蓑笠姿で竹田街道を南下し、長州兵は入京を禁じられた。これを七卿都落ち、八・一八の政変という。
松平容保とその家臣たちはわずか8ケ月で、乱れた京都の治安を回復させ彗星のように国政の舞台に踊り出た。江戸に戻っていた将軍後見職一橋慶喜をはじめ幕府閣僚は会津藩の力に驚いた。諸大名が相次いで上京し、薩摩の島津久光は小銃隊12隊、大砲隊2隊、1万5千の兵を率いて、10月3日、京都に入った。続いて越前の松平春嶽が入京、伊達宗(むね)城(なり)、山内容堂と、幕府の実力者大名が江戸でなく京都で顔をそろえ、京都は公武合体派の天下となり、松平容保とその家臣たちはその中心にいた。いまや会津藩の地位はゆるぎないものとなった。
壬生(みぶ)の浪士隊は、長州追放の功が認められ、武家伝奏より『新選組』の隊名を賜った。