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2014年9月19日

高遠そば-2-11 荻野鐵人

こんな時期、会津藩に憂慮すべき事態が発生した。もともと病弱だった容保が激しい熱で起きられず体も衰弱して行った。容保が第一線で指揮を執ることは不可能になったのだ。
会津藩公用局は京都の強化策として手代木(てしろぎ)直(すぐ)右(う)衛門(えもん)を公用局重臣として会津から呼び寄せ、梶原平馬、倉沢右(う)兵衛(へい)、神保(じんぽ)修理(しゅり)ら二十代エリートたちも続々上洛させた。さらに鬼官兵衛の異名をとる高遠以来の佐川官兵衛を学校奉行として京都在勤の若手藩士の教育に当たらせた。
また、のちに新島襄(じょう)とともに同志社英学校を創立した砲術師範山本覚(かく)馬(ま)を呼んだ。覚馬の妹である山本八重子は兄に習って鉄砲の知識があり鶴ケ城籠城戦では断髪し男袴を穿いて活躍したが、のちに新島夫人となった。
しかしこの会津藩の体制強化は、藩内に路線の対立を生むことになった。会津・薩摩同盟による公武一体を図る秋月悌次郎の路線と、幕府・会津による政局展開を図る手代木直右衛門の路線である。会津・薩摩同盟に反対だった将軍後見職一橋慶喜は手代木を重用した。
会津藩は巨大な守護職屋敷を完成させ、容保の実弟桑名藩主松平定(さだ)敬(あき)が京都所司代になり、人々は『一会桑の時代が来た』と噂し合った。一は一橋慶喜、会は会津藩主松平容保、桑は桑名藩主松平定敬を指した。
イギリス公使官一等書記官アーネスト・サトウは、幕末から明治維新にかけて日本に滞在し、日本の運命を左右する多くの事件に関係した。会津藩にも深い関心を寄せ、慶応元年(1865)秋に、会津藩士野口富蔵を秘書に採用している。会津藩はこのルートで、いち早く外国情報を手にいれることができた。富蔵から柴太一郎に「長州は全藩をあげての攘夷となり馬関海峡を封鎖した。このため連合艦隊が大挙して馬関海峡に攻め入り長州に報復を加える』『長州は兵制の改革を行い全藩をあげて軍備の強化に狂奔している』という密書が届いた。さらに長州に潜伏中の隠密神戸(かんべ)岩蔵からの密書によると『長州藩は、八・一八の政変で長州に下った七卿を迎えて挙兵上洛の計画を立て朝廷をゆさぶり、全国の尊攘派の決起を促そうとしており、桂小五郎が京都に向かった』というのである。



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