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2014年9月21日

高遠そば-2-12 荻野鐵人

会津藩は、京都町奉行、新選組に厳重な警戒を求めた。新選組の近藤勇は、旅館池田屋で長州藩過激派浪士らの会合があるという情報を掴み、会津藩、京都所司代に報告した。会津藩兵と桑名藩兵は新選組とともに行動し、京都見廻組や京都町奉行の者が市中を固めた。午後8時、新選組は約束の援兵を待った。しかしなかなか来ない。しびれをきらした新選組は単独で決行した。午後10時頃だった。近藤勇、沖田総司ら7人は突入した。この夜、池田屋に集合していたのは、肥後の宮部(みやべ)鼎蔵(けんぞう)ら、長州の吉田稔(とし)麿(まろ)ら30名近かった。宮部鼎蔵は久坂玄瑞、真木和泉らと並ぶ過激派で八・一八日の政変で長州に下り再挙を図って密かに上京していた。吉田稔麿は松陰門下の秀才で江戸から長州に帰る途中池田屋の会合に出ていた。もう一人の大物、桂小五郎は難を逃れた。即死7名、生け捕り23名、新選組は大勝利を納めた。『6月20日ごろ、北風の強い日の夜に火を放ち京の町を大火で包み、その混乱に乗じ天皇を長州に移す。また中川宮、松平容保が参内するのを途中で襲撃し長州の地に攘夷倒幕の政権を樹立する』という大陰謀だっただけに、孝明天皇も金子百両を新選組に褒賞した。
池田屋の変が萩に伝わると、長州藩は世子毛利定広と福原(ふくはら)越後(えちご)、国司(くにし)信濃(しなの)、益田(ますだ)右(う)衛門(えもん)介(のすけ)の三家老の上京を決めた。これに先だち、来島又兵衛、久坂玄瑞、真木和泉らは約1500の兵を率いて直ちに京に上り伏見、山崎、嵯峨に陣を張った。京都は騒然となった。会津・薩摩・桑名藩を主力とする約3千の兵が御所を固め長州兵と対峙した。国司信濃を大将とする天竜寺勢は京都市街に潜伏するゲリラ兵に先導され一気に御所に迫り、蛤(はまぐり)御門(ごもん)には益田右衛門介、久坂玄瑞、真木和泉らが門前の鷹司(たかつかさ)邸に入り込み大砲を御所へ向かって撃った。
守備兵は混乱した。蛤門を救ったのは会津の山本覚(かく)馬(ま)、林権助(ごんすけ)らで巨砲15ドエム砲を鷹司邸に撃ち込んだ。
益田右衛門介は逃走し久坂玄瑞は割腹した。真木和泉も自刃した。長州勢は藩邸に火を放ち京の戦禍の焔は3日も燃え続けた。これを禁門の変(蛤御門の変)という。



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