2014年9月24日
高遠そば-2-15 荻野鐵人
長州側はこれを四境戦争と呼んだ。四境の一は長州領最大の島である周防大島から攻撃して来る大島口。次ぎは芸州広島から侵入して来る芸州口。石見から攻めて来る石州口。九州諸藩の兵が九州小倉に終結しそこから海を渡って来襲する小倉口である。この四方面から幕府軍を迎え撃つ長州勢は、海軍総督高杉晋作、陸軍総督を空席とし、軍政専務になったばかりの大村益次郎(村田蔵六)が陸軍の指揮を取った。上層部が片っ端から処断されているので、いわば極め付けの奇人が作戦をたてることになった。
幕府は勅許を得ているので長州は朝敵である。しかも36藩に動員令を下し、江戸でフランス士官の訓練を受けた洋式の幕府歩兵3千がいる。幕府の一方的勝利を思ったのは、幕府側だけではない。長州側も患者の来ない村医者上がりで、オランダ語の本で戦法を学んだ大村が作戦立案を指導するというので、『これは駄目だ』と半ば観念した。事実、緒戦の海戦は幕府軍の圧倒的勝利だった。ただ桂小五郎だけは『火吹き達磨の大村のこと、なんとかしてくれるだろう』と信じ、且つ祈った。幕府軍は各所で長州勢の新式兵器にワラ人形のように倒されていった。四境のうち一番はやく決着がついたのは、浴衣にモンペを履き草履ばきという格好の大村益次郎が直接赴いた石州口だった。征長軍の象徴だった将軍家茂が大坂城で病没したことも、その後の幕軍の士気を奪った。小倉口には老中小笠原長行(ながゆき)が兵を率いて布陣したが、高杉晋作、山県狂介(のちの有朋)の率いる奇兵隊が海を渡って小倉に攻め入り占領し、小笠原は長崎に逃げる始末で長州領内に兵を進めることが出来なかった。
会津藩兵は苛立ったのだが京都を離れれば薩摩がたちまち京都を制圧し朝廷を己の物にするに違いないと考えた。8月1日、小倉城が落ちるとともに事実上征長戦争は終結した。8月20日、一橋慶喜が15代将軍に就任し9月2日に長州との間に休戦協定を結んだ。