2014年9月25日
高遠そば-2-16 荻野鐵人
岩倉具(とも)視(み)は日頃から独自の朝権確立の理論を持っていた。長州再征で幕府が勝てば幕威が強大となるので朝廷には不利である。また長州が勝てば再び過激な倒幕論が横行し京都は暴力の都と化してしまう。薩長均衡による雄藩操縦策こそ朝廷にとって最も得策である、という理論である。薩摩と岩倉の利益が一致した。岩倉具視は文政8年(1825)京都の公卿堀河家に生れ14才で岩倉家に養子に入った。岩倉家は百五十石、中の下の家格で、生活は決して楽では無かった。公卿の家には普通の場合、京都町奉行の捕吏(ほり)の手が入らない。岩倉はこの特権を大いに利用して、自分の家を博徒に貸して賭博を開帳させ寺銭をかせいで生活の足しにしたという悪である。政治家としての手腕が注目されたのは、孝明天皇の妹君の和宮の降嫁(こうか)である。幕府と手を結び朝威を挙げようとすでに内定していた有栖川宮との婚約を破棄し、降嫁を成立させた。これが尊嬢派の憎悪を深め奸物として命が狙われると、さっさと洛北の岩倉村に閉居、地下生活をしている。この岩倉に西郷吉之助、大久保一蔵(利通)らが眼をつけた。
8月末、岩倉具視にけし掛けられた22人の公卿が徒党を組んで参内、長州派の公卿を許すこと、政治を幕府から朝廷に戻すこと、などを建議し宮廷内部の人事の刷新を迫った。親幕派の関白二条斉(なり)敬(ゆき)、佐幕派国事扶助の中川宮朝彦親王は弾劾され2人は辞表を出した。朝廷は動揺した。
しかし孝明天皇の怒りは激しく、22卿の閉門を命じた。
ここで、京都守護屋敷を震憾させる重大事が起こった。12月11日、孝明天皇が天然痘にかかったのだ。病状は意外に重く、うわごとを言い、一時は心配されたが、19日ごろ丘疹期、22日から水庖期、23日から膿庖期に入り順調に回復した。ところが24日夜半になって帝の容態がにわかに急変した。
皇太子睦仁親王(明治天皇)の生母、中山の局が半狂乱になって御所を走りまわった。『帝は毒を盛られたのです!!』中山の局の悲痛な一言を隣の間に控える容保ははっきりと聞いた。
25日早朝、孝明天皇は突然に亡くなった。御年36歳であった。
この当時天皇が毒殺されたという噂が流れたことはアーネスト・サトウの日記にも書かれているが、天皇の主治医伊良子(いらこ)光順の子孫である医師伊良子光孝氏が中央公論社から出ている『歴史と人物』(昭和50年10月号)で、光順の日記とメモや紙片に走り書きしたものを詳細に調査した結果、天皇は痘瘡の回復期の時点において、砒素系の薬物で毒死した疑いが濃厚であると言っている。
明治23年に宮内省で歴史編纂の前提として、孝明天皇の死の真相を物語る維新歴蒐集を行おうとしたとき、伊藤博文の強い反対で中止になった。真実が明らかになることを恐れたのである。暗殺とすれば最も疑わるべきは岩倉具視と大久保の線である。岩倉具視が、実妹の女宮堀河紀子を使って毒殺させたにちがいないことは、多くの史学者が資料を研究して、ほぼ決定的になっている。