2014年9月26日
高遠そば-2-17 荻野鐵人
慶応3年(1867)正月9日、15歳の皇太子睦仁親王が天皇となり、関白二条斉敬が摂政となった。二条は、岩倉らの圧力に屈し、正月15日、孝明天皇御大葬に伴う恩赦として、勅勘を蒙むっていた22卿の参内を許すことにした。
将軍慶喜は、欧米諸国に対する兵庫開港と長州との和平を朝廷に奏するにあたり、後押しをさせるべく薩摩の島津久光、土佐の山内容堂、越前の松平春嶽、伊予宇和島の伊達宗(むね)城(なり)の入京を依頼した。5月、この2件の勅許を受けた。
ところが大久保らに入れ知恵された島津久光は山内容堂、松平春嶽、伊達宗城と語らい、『幕府が長州征伐軍を派遣したことは暴挙であり天下の騒乱を引き起こした』とする文書を4人連名で武家伝奏に提出した。長州がいつの間にか賊ではなくなり幕府が代わって朝敵となってしまう御膳立てが仕立て上げられてしまったのである。
6月に入って間もなく、失脚していた秋月悌次郎が、柴太一郎の公用局重臣への必死の説得により再び上京してきた。太一郎は秋月以外にはこの場を解決できないと信じていた。
秋月悌次郎は、かねて親しかった薩摩藩の高崎左太郎・大山弥助らと接触を図ろうと努力したが、西郷・大久保は許さなかった。
太一郎と秋月悌次郎は、土佐を介して薩長との武力衝突を避けることを思い立ち、土佐藩の参政後藤象二郎に白羽の矢をたてた。後藤象二郎は、開成所で航海術や蘭学・英学を学び、開明的で山内容堂の信任も厚かった。
後藤象二郎は、坂本龍馬の『船中八策』をもとにして、『将軍家は、政治を司ることを朝廷に返す。帝を日本国の象徴とし、その下に徳川家や会津松平家を含む日本中に影響力のある諸侯で合議制の内閣を作る。将軍家が政事を朝廷に返すからには、薩長にも武力倒幕はやめさせる』との提案をしてきた。
柴太一郎は、9月9日この提案を西郷に申し入れたが、拒絶された。止むを得ず、後藤象二郎に山内容堂名義の建白書を書かせて将軍家に出させることにし、10月3日、大政奉還建白書に山内容堂が署名と花押を書き入れ、老中の板倉ほか若年寄永井尚(なお)行(ゆき)、京都守護職松平容保、京都所司代松平定敬を呼んで同意を得、14日に大政奉還の上表を提出、翌日、勅許を得た。13日には二条城に在京四十藩の重役を集めて大政奉還の諮問書を回覧し同意を得た。