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2014年9月29日

高遠そば-2-19 荻野鐵人

12月9日、西郷吉之助の率いる薩摩藩兵に囲まれての、世に言う小御所会議が始まった。当時16歳の明治天皇が上間の簾奥に臨席、左方に有栖川、山階、仁和寺の各宮と岩倉具視らの公卿たち、右方に尾張の徳川慶勝、越前の松平春嶽、安芸の浅野茂(もち)勲(こと)、土佐の山内容堂、薩摩の島津忠義が列座、下座に後藤象二郎、大久保一蔵、辻将曹(安芸藩)、中根雪江(越前藩)の陪席が許された。議題は、幕府の直轄領地を返上させる件である。山内容堂は徳川慶喜ぬきの会議など、誰がみても岩倉らの陰謀としか考えられず、決して旧幕臣たちが容認できるものではないと、会議の不成立を説いた。会議が休憩に入り、席外にいた西郷が、『これ以上、山内様がゴテゴテ仰せ遊ばしたら、おいどんの短刀一本でお片付け申す。ご心配ご無用でこわす』と言った言葉に岩倉は覚悟を決めた。
容堂は『鯨海酔侯』と自称するほどの酒豪。この日も酩酊に近い。
『陰謀をたくらむ一握りの公卿が、恐れ多くも幼沖の天子を擁し奉り、天下の権を盗まんとするに非ざるや』とつい調子に乗って言ってしまった。
『幼沖の天子とは何事ぞ!帝に対し無礼であろう。控えよ容堂!!』この岩倉の声にさすがの容堂は沈黙してしまった。あとは岩倉の思うままである。
明けて慶応4年正月3日、旧幕府の洋式部隊と会津・桑名・高松・松山・大垣藩兵合計1万が、大阪を出発し、鳥羽と伏見の2つの街道を目指して進んだ。相手の在京倒幕側は5千。しかもこの段階では旧幕陸軍の武器は薩長よりも優れた元込め銃を持っていたのだから有利のはずであった。
5日薩長軍は錦旗を掲げた。この錦旗を掲げることを考え、図案を作ったのは、偽の詔勅と同じく玉松操である。『大日本史』や『日本外史』で教育を受けている大名や上級武士に対して錦旗が効き目がある、特に慶喜は『大日本史』を編じた水戸光圀の子孫だから効果がある、と考えた。玉松操は『太平記』や『梅松論』を見ながら錦の地に金色の太陽と銀色の月をあしらった簡単な図案を作成した。この図案を長州の品川弥二郎が萩の有職家・岡吉春に依頼した。岡は弟子の鬼童丸重助と共に美しい形に作り上げた。錦旗の効果は翌日には見られ、伊勢の津藩が、幕府軍に向けて発砲した。
慶喜は『予自ら陣頭に立って明朝出陣至す』と言って血気盛んな会津・桑名藩兵に喜びの声をあげさせながら、松平容保・定敬・老中・大目付らを引き連れて、ひそかに大坂城を脱出、軍艦で江戸へ帰ってしまった。翌朝慶喜らの脱出を知って、藩兵の怒声は頂点に達した。容保が帰ってしまったのは近臣の神保修理と小姓の浅羽忠之助の責任だと言う者達と、殿ともあろう方が腋甲斐ないと主張するものと半々だった。首席家老梶原平馬は、苦肉の策として神保修理に『そちが、殿に江戸へ帰るように勧めたことにするが良いか?』と話したところ、神保は、『委細承知つかまつりました』と言って切腹した。これで会津藩内の動揺はぴたりと収まった。神保の死は無駄ではなかった。のちになって会津落城のおり、容保にかわって3人の家老が切腹することにきまったが、彼の死をこのうちの一人として数えてもらったのである。



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