2014年10月1日
高遠そば-3-2 荻野鐵人
いまでも会津では「戦争」というと太平洋戦争のことではなくて、いまだに戊辰戦争のことをいうことが多い。「戦後」とか「戦前」というのも1868年の戊辰の年を境にしての話である。太平洋戦争で会津が空襲を受けなかったことと、大陸へ出征した会津若松の陸軍連隊も戊辰戦争ほどの戦死者は出さなかったこともその理由であろう。
戊辰戦争における会津と太平洋戦争における日本の運命はよく似たところが多い。会津藩の京都守護職時代における勝利は、文久3年(1863)の会薩同盟による長州藩退京・七卿落ち事件と翌元治元年(1864)の禁門の変であり、日本軍のハワイ空襲やマレー沖海戦に相当する。鳥羽伏見の敗戦はミッドウェイ海戦にあたり、さらに戦局の一大転機である大阪城と江戸城引き揚げがガダルカナル島の撤退である。江戸を引き揚げて会津へ帰った会津藩は奥羽越三十三藩同盟(会庄も含め)で対抗しようとするが、それと同様に日本軍もアッツ島守備隊全滅後に日独共同声明を発して三国同盟を再確認する。長岡藩の敗退に続く仙台藩と米沢藩の降伏は、イタリア、ドイツの敗退である。敵の大軍は新潟から津川に迫り、遂に東部藩境、母成峠が突破された。米軍のルソン島上陸から硫黄島全滅、遂に沖縄本島に上陸された。そして滝沢峠から若松城下へ敵の大軍が殺到、広島、長崎への原爆投下、どちらもこの日一日で歴史的に最大多数の差別なき犠牲を出したとはいえ太平洋戦争では日本は本土決戦を避けて無条件降伏するが、会津戦争では真の本土決戦たる鶴ケ城篭城戦をさらに一ヵ月残しているという相違はある。
さらに大きな相違点は戦後処理である。アメリカは日本を占領すると戦犯は処刑したが天皇制と日本古来の領土を維持し、食糧と自由、民主主義と平和憲法を日本に与えた。ところが明治政府は会津戊辰戦争の戦後、藩主父子の助命はしたが戦犯の処刑と幽閉をし、女・子供・老人は一時無罪としても、城内の会津兵3100名は全員猪苗代に集めて東京で監禁、城外の兵1700名は塩川に集めて越後高田で監禁とした。将兵は翌年、雪中を徒歩で護送され、そこで1年半も謹慎させられた。
それだけでは終わらなかった。