2014年10月2日
高遠そば-3-3 荻野鐵人
薩長中心の明治政府は会津藩を減藩とし、明治2年末、藩主の生まれて間もない実子(戦争を知らない子)に松平家の再興を認めた。新たに北の果ての下北に斗(と)南(なみ)藩3万石をたて、東京・越後高田で謹慎していた将兵に家族を合わせると1万7300名を極寒の地へ強制移住させたのである。28万石(慶応3年現在では、旧領30万石、増封5万石、第一回職封5万石、第二回職封5万5千石、これに加え月2千俵、さらに月1万両。これらを石高に換算すれば約67万9千石)の大藩の藩士たちは流刑同然に、極寒の地3万石(実質7千石)の斗南藩に追いやられたわけである。難民がより貧しい土地に大移動するのは世界史にもその例を見ない。これはシベリアへ満州の日本人捕虜が抑留され強制労働のため多くの人々が倒れていったのに似ているが、家族ぐるみだったのだからもっと酷いともいえる。
会津若松の城下町の大半は戊辰の戦火で焼け、町人は住む家に先ず困ったので雨露を凌ぐ小屋掛けから始めたという。町の復興には自力だけで這い上がらねばならなかった。
1ケ月の篭城中、城外の戦闘は各地で激戦だったので、その殆どが会津側のものである戦死者の遺体は累々と放置されたままであった。戦後になっても「賊軍の死骸には手をつけるな」という新政府軍の厳しい命令だったから、千数百の遺体は犬鳥の餌となるだけであった。飯盛山近くの百姓吉田伊惣次がせめて少年だけは埋葬してあげたいと、自決した白虎隊19士のうち4体だけを近くの寺に埋葬したら直ちに捕縛投獄された。吉田は仕方なく4体を元の飯盛山へ放棄してくるのを条件に放免されたという。
落城した明治元年9月22日は陽暦で11月6日であり、やがて冬が来て会津の山野は雪で被われた。この間に残務整理をするために会津に残った町野主水ほか数名の旧会津藩士は埋葬許可を嘆願し続けた。その熱心さが報われ翌春の雪解け後に遺体処理は漸く許された。初めは罪人塚にのみという許可であったが、殉難者をそんな処には埋葬できぬとさらに嘆願し、遂にその近くの阿弥陀寺に1281体、長命寺に145体を荒筵に包み、縄で引きずって運び、埋葬し終わったのは7月頃だったという。こういう人道に外れた仕打ち、世界史にも類のない処置が120年前の日本にあり、その屈辱は会津人の子から孫へと伝えられてきた。