2014年10月5日
高遠そば-3-5 荻野鐵人
長州人にも実によく会津を理解してくれた人がいた。それは敗戦直後会津の猪苗代で謹慎させられた約3千の会津藩士の中の秋月悌次郎に書簡を寄こした、長州干城隊参謀の奥平謙輔であった。奥平はその書簡の中で会津藩が戦争中に果たした役割をよく理解し、幕府のためによくやってくれた、この後はその忠義の心を「朝廷」に捧げ、国家に尽くしてはくれまいかと秋月に説いたのである。秋月はいたく感激し、謹慎所を脱走して密かに奥平に会うため新潟まで行った。そして会津藩公の助命と藩の将来のために少年2名の教育を頼み、奥平は引き受けた。この二人の少年の中に、当時15歳で後に理学博士第一号となり東大では白虎隊総長と呼ばれた山川健次郎がいた。
秋月の頼みにより奥平は、兄事していた長州藩幹部で新政府の参議となった前原一誠に頼み、会津松平家の助命も一応の見通しがたった。そこで健次郎の兄で斗南藩の責任者だった山川大蔵(浩)は、前原一誠に蒲生(がもう)氏(うじ)郷(さと)が会津築城のとき本丸大書院に飾ったと伝えられる「泰西王侯騎馬図屏風」を送ったという。しかし新政府と意見を異にした前原一誠は参議を辞して奥平とともに萩に帰って、明治9年(1876)には新政府から不平士族の反乱とされてしまう(萩の乱)。10月23日、挙兵した前原に呼応した元会津藩士永岡久茂は関東に乱を起す計画だったが、10月29日、日本橋小網町の思案橋で事は発覚、警官と斬り合った末に捕われ、翌10年1月12日、鍛治橋の獄屋で絶命した。世にいう「思案橋事件」がこれである。
奥平は前原一誠とともに処刑される日、秋月悌次郎だけに遺書を送った。秋月は遺書を手にした時は一晩号泣したという。秋月は明治23年より5年間を当時九州の最高学府といわれた五高の教授になったが、苛烈な戊辰戦争を戦い、沢山の犠牲者の悲しみを背にした老教授は「中庸」の精神を尊び、常に人々にやさしい微笑と温かさで接した。真白な髪と、あごの下に豊かに垂れた髭で柔和な古武士風の秋月は、倫理の時間に遅れてきた学生に「王法に曰く、遅れて至る者斬るとある。大事の聖賢の道を聞く議席に遅刻するとは何事だ。君は何藩か」と叱ったという。その剛毅朴訥の精神は五高生魂として学生に強い影響を与えた。