2014年10月6日
高遠そば-3-6 荻野鐵人
「…さて前置きはこのくらいにして、話の続きだが」
なに ! 前置き ! まだ続きがあるの ! とは思ったが、僕たちはなんだか秋月先生に教わっているような気がしてきてもいた。「帰る者斬る」などといわれそうだ。これはとんでもないことになった。集合時間に遅れて引率の先生に斬られるかも知れない。話を聞けばそば代はただなんて、うまい話にのったのが悪かった。ただほど高いものはない、とは良く言ったものだ。
お爺さんの話は、つぎのようであった。
柴太一郎の父佐多蔵は藩祖保科正之が高遠城主であった頃以来の世臣で、士分最高格の納戸(なんど)紐(ひも)の番頭、新番頭に次ぐ、御(お)物(もの)頭(がしら)(隊長)であり、つねに上下(かみしも)着用を許されていた。格役黒紐とは身分をあらわすもので、その下には紺色と花色があり、ここまでを士分とし、その下に紐制と称する茶、萌黄、浅黄の3階級、これに次ぎ襟制と称する黒半襟、大和柿白鼠半襟、浅黄半襟の3階級より11級に分かれ、一見してそれと分かる服装になっていた。
第九代藩主松平容保が京都守護職に就かねばならなくなり賛否の藩議が沸騰している時、太一郎の弟五郎は3歳だった。太一郎、謙介、五三郎、四朗は京都守護職屋敷に詰めていた。謙介は鳥羽伏見の戦いで白井五郎太夫の指揮する大砲隊に属し、東軍の一番左翼にいた。太一郎が馬上から謙介らの白井隊を見ると、揃いの白足袋をはき同じく白の鉢巻きを締めまさに勇気凛々といった扮装であった。謙介の眉宇には決死の色があらわれていた。2人は無論何も言葉を交わすことはなかった。この戦いで、五郎の姉のそいの夫の土屋敬治が戦死したが、4人の兄たちはみな無事だった。
容保が鳥羽伏見の戦いの直後慶喜によって拉致されるようにして東帰したと聞き、蟄居謹慎していた西郷頼母は取るものもとりあえず江戸へ馬を走らせてきた。打ちひしがれていた容保は喜んだ。慶喜にまで裏切られた容保の傷心を頼母は静かに慰めた。
頼母は容保が守護職拝命する時から猛反対していた。頼母でなければ容保に対してそこまで反対意見を言えなかったし、他の者だったら切腹の上意が下りていたであろう。国を想い、主君を想うあまりの諌言だった。会津藩の発展と家臣や領内の民衆の日々の安定、それを思う上の諌止だった。その憂いが現実となったいま、そのことが的中したことを誰よりも悲しんでいるのも頼母だった。
頼母を復職させたことは大名の主従関係においては容保が不明を詫び頼母の忠言を認めたことになる。