2014年10月7日
akira's view 入山映ブログ 日本政策金融公庫
平成20年10月1日、国民生活金融公庫、農林漁業金融公庫、中小企業金融公庫及び国際協力銀行(旧輸銀部分。旧OECFの無償部分はJICAと合併)は統合し、株式会社日本政策金融公庫(以下「政策公庫」)に衣替えした。政策公庫の役員人事を巡って、名目的に民間人をトップに据えただけで、後は全員役人の天下りではないか、という批判もみられた。が、株式会社とは言いながら当面は株式全額政府保有なのだから、常の民間会社への天下りとはいささか趣を異にする、として押し切られたようで、さしもの民主党の追求もここには及ばないようだ。しかし農林漁業・中小零細企業のために16兆円(政策公庫融資残からODA関連のものを除く)もの公的金融機関を存置、あるいは設立する必要があるのか。民に出来ることは民に委せてはどうか、という声もないではなかった。しかし、民間銀行の「貸し渋り」が大きな話題になり、現実に中小企業の借入金の中に占める公的金融機関の比率が50%を超え、昨今はなお増加傾向にある、という情勢の中ではこれも既成事実の前に声はかき消されそうである。
石原都知事が中小企業.ベンチャーの守護神として新銀行東京を設立、その経営が破綻状況に陥って追加出資が話題になったときも、これに類した議論がみられたのだが、当面は尻すぼみ状態でなしくずしになっている。大前研一氏あたりは、都市銀行から地方銀行へ、さらに新銀行へと、危険度の高い融資がババ抜きをされただけで経営改善などみられるはずもない、と手厳しいが、その(どのようなかたちであるかはともかく)帰趨が判然とするまでにはまだ時間がかかりそうだ。しかし、考えてみればおかしな話で、低利中小企業金融支援が社会的に必要である、という話と、それがお役人(元お役人あるいはお役人もどき)の手によって運営されねばならぬ、という話は別のはずだ。地域に密着している信用金庫や信用組合に低利資金の供給を行っても目的は十分に達せられるはずだし、第一その方がはるかに安上がりではないか。
さらに、開発途上国などで無数に存在するマイクロ・クレジットと称される金融機関(ノーベル平和賞受賞者のユヌス氏率いるグラミン・バンクはその典型)は大きな成果を上げているが、その運営にあたってのメンタリティとかエトスは、公的金融機関のそれとは大きく異なる。何よりも、地域に密着する度合いとその運営のされ方(詳言は避けるが、予算主義・前例尊重主義などについてこのブログで取り上げた前稿(例えば3.11「予算主義」5.2「評価」)を参照されたい。)に雲泥の差がある。信用金庫や信用組合の現地支店には、そのままマイクロ・クレジットに連れてきても十分活躍できるスタッフは少なくない。しかし、オカミから天下った官僚社会の申し子のような経営者の下にいたのでは、彼(女)らのやる気も、創意も消し飛んでしまおうというものだ。効率至上主義の金融組織がどんな問題点に遭遇しているかを知っている我々は、中小企業とか、ベンチャーと言われる「金の卵」のために、画一的ではない、官僚主義から自由なしかけを考えてみる時期に来ているのではないか。
三万とも、四万とも言われる特定非営利活動法人(NPO)が、善意と志だけを売り物に清貧に甘んじることを美徳とし、市場経済体制の中に組み込まれないことを以て心意気とする、というのではインパクトも限られよう。手あかのついた中小企業イメージとベンチャーの「山師」的受け止め方から訣別するためには、奇矯かもしれないが、官僚主義からの訣別こそが早道だ。遠くに例を求めることはない。職業訓練だ、ハローワークだといって、およそ現実から遊離した政策を取り、そのくせ、不正規雇用だ、フリーターが社会問題だと騒いでいるのと問題は同根である。
2008年 10月 06日