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2014年10月7日

高遠そば-3-7 荻野鐵人

一橋慶喜が鳥羽伏見の戦いの最高責任者として切腹していたら、上野彰義隊や白虎隊の悲劇もなかったのかもしれない。長州藩にしてみれば会津には憎しみと恨みがあるから、たとえ慶喜が死んでも会津弾劾と追及は止めなかったろうが、会津藩の抗戦の心情はかなり変わっていたに違いない。慶喜はひたすら恭順することで鳥羽伏見の戦いがいかにも自分の胸から出たものではないことを立証しようとした。このため会津藩主松平容保を江戸から追い出した。会津藩士の大半が江戸の3つの屋敷をひき払って会津へ出立したのは、慶応4年(1868)3月上旬である。容保が2月16日、最後が頼母で3月5日のことだった。
容保の帰郷の姿は余りにも寂しいものだった。伴の者わずか16人、これが28万石の藩主の帰郷だった。思えば文久2年(1862)以来、幕命拒み難く京都守護職の大任に就き、その病弱な双肩で落日の幕府を支えてきた容保にとっては苛酷な結末だった。
柴太一郎は会津に戻ってくると、再び越後方面に出征するまでの慌ただしいさなか、新たに入校する弟の五郎の入学手続きをし、日新館の役員諸先生たちの家に挨拶に回った。
日新館教育は切腹の作法を少年たちに教えていた。毎日、藩校から帰宅すると端座して心を静め切腹の作法を一通り行ってから、夕餉(ゆうげ)の膳に就いた。会津武士道は未練を恥とし、潔(いさぎよ)い死によって最後の華とした武士道の美学である。いわゆるためらい傷を恥とする。この恥の意識が最後を整えるのである。有終の美を知ることによって日常もまたためらいのない行動ができるのだ。切腹という儀式で武士として生きる、死ぬことは生きることという美学がここで完成される。
やがて会津藩は総動員の体制を布いて、柴太一郎は軍事奉行として越後方面に向かった。謙介は大砲隊に属し、高遠以来の山川大蔵について日光口に赴いたが偵察に出たまま行方不明との報に、母のふじは人目をさけて押入れの中に供物をささげ香花を手向けて弔霊した。五三郎は佐川官兵衛に属し、農兵隊長として越後口に向かって行った。四朗は白虎隊に編入されたが京から帰郷してからはずっと微熱がつづき家で伏せっていることが多かった。太一郎に家督を譲った父の佐多蔵は玄武隊に編入され、毎日若党に槍を持たせてお勤めに出るようになった。白河の戦闘で五郎の姉つまの夫である望月新兵衛の戦死の報が届いた。



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